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2017.10.18

Dale Doughertyが伝えるカリフォルニア山火事の現状、そして災害に際してMakerには何ができるのか

Text by Dale Dougherty
Translated by kanai

信じたくない現状

ソノマ郡とナパ郡を襲っている山火事によって激しく被災した地域は、まるで「戦場のようだ」と人々に言わしめた。猛り狂う炎は、聖書の中の黙示録の光景を連想させる。これほど甚大な被害を表現する言葉を、私たちは持ち合わせていない。信じられない光景だ。言葉を失うとはこのことだ。Douglas Thronがドローンで撮影した下の動画を見てほしい。

ラジオによると、炎は3秒ごとにフットボール場1つ分の面積を焼き払いながら広がっているという。1899年に建てられた赤い円形納屋ラウンドバーンなどの名所も焼け落ちた。近くにあったヒルトンホテル、人気のワインバー、Willi’s、いくつかのファストフードのレストラン、クローバーリーフ馬牧場、カソリック系の高校、Kマートもすべて焼け落ちた。2,800棟以上の建物が失われた。だが、もっとも多く焼失したのは住宅だ。中流住宅街コフィーパークで1,000軒、高級住宅街のファウンテングローブで500軒が焼けた。その地区にあったカントリークラブやゴルフ場も焼けてしまった。さらに、皮肉なことにJourney’s End(旅の終わり)と名付けられたトレーラーホームのための駐車パークも失われた。

深夜に家を追われた人たちの多くは親類や友人の家に逃げ込んだが、コミュニティセンターや教会や退役軍人会の建物などに避難した人たちもいる。今朝のサンタローザ新聞には、家を焼かれて海岸でキャンプする家族の記事が載っていた。避難後、家が建っていた場所に戻ることができた人たちが目にしたのは、焼け跡だけだ。彼らは突然に財産を失った。コフィーパークの家に住んでいた19歳の陸軍予備役、Yvette Lopezは、Press Democratのインタビューに応えて、こう語っていた(下の動画)。

「夜中の2時半に避難するよう言われて、訳も分からずに家を出た。帰ってみると、何もかもがなくなっていた。苦労して集めた物すべてが、一瞬にして失われた。中南米でのハリケーンの災害などは聞いていたが、まさかこの街でこんなことが起きるとは思ってもみなかった」

延焼の直前に避難できた病院の患者は無事だったが、医師や看護師は家を失った。学校で被害を受けたところは少なかったが、教師や生徒たちは家を焼かれた。企業は、火災や停電によって営業ができなくなり、従業員は職を失ったり、突然に解雇されたりしている。自分の家がどうなっているのかを確認できずにいる被災者も多い。

消防隊員、PG&E(電力会社)の従業員、警察、医療チームの初動は素晴らしかった。訓練されたプロ集団がいることの意味は大きい。彼らは大いに能力を発揮してくれただけでなく、身の危険を顧みず、人の健康や安全を守ることに専念していた。行政機関なんて必要ないと言う人もいるが、私は行政機関があってよかったと思っている。しかし、どんなに頑張っても、彼らの力には限界がある。ソノマ郡では、同時に多くの箇所で火災が発生したため、対処する人手が足りていない。自然の猛威に対しては、どんなに優れた計画も太刀打ちできないのだ。

こうした事態においては、地元の報道機関が力を発揮する。Santa Rosa Press Democratは、私たちの地域の報道機関だが、彼らが仕事を続けられる状態でよかった(公共放送以外は、ここにはテレビ局もラジオ局もない)。Press Democratの報道写真家は、大規模火災の取材経験が豊富で、とくに注目すべき存在だ。近くに暮らしていても、彼らがどんな活動をしているのかを間近に見ることは少ない。彼らの仕事には息をのむ。いくつか紹介しよう(サンタローザのビフォー・アンド・アフターソノマ・ベネットバレーの火災)。

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セバストポルにあるChimeraメイカースペースのDana Woodmanは仲間を集め、被災者とボランティアのための情報提供サイト、Sonoma Fire Infoを立ち上げた。

現在、避難所から出た後に住居を必要とする人は数千人いるが、サンタローザの空き部屋率は1パーセント、ソノマ郡全体でも34パーセントに留まる。ある情報筋 によると、新築住宅の不足は2008年の経済危機に関係しているという。別の形の災害の影響が、まだ尾を引いているのだ。

この山火事は、ちょっとした住民の離散を招くだろう。これは、プエルトリコやフロリダキーやヒューストンや、さらにはシリアと違わない。家を失った人たちは、住むところや仕事のある場所に移住しなければならないのだ。

ボーデーガ湾の近くには、早くも2.4平方キロメートルの FireCamp(被災者用キャンプ)ができている。開設者のDave Morinはこう話す。「FireCampは、ユルトと食料と水とトイレを備えた小さなコミュニティを作るオープンプロジェクトです。北カリフォルニアの火災で家を失った人たちを救済するために、私有地を寄付してもらいました」

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私の家

私が住むセバストポルの家は、幸いなことに火の通り道から外れていた。だが、この火災は他人事ではない。ここは私の地元なのだ。私はこの街を肌で感じ、ここに暮らしている。ここは単なる土地ではない。人の繋がりがある。

月曜日(日本語版編注:日本時間の10月9日)の朝、息子が電話で火災の状況を知らせてくれた。ソノマ郡全体に広がっているという。外を見ると、気味が悪いほど暗かった。灰が太陽光を遮っていたため、まるで日食のようだと言う人もいた。家の周りを歩いてみると、焼けた木の葉が落ちていた。それは火ぶくれして炭化していたが、一枚の葉の形を留めていた。強風に吹かれて何マイルも飛んできたのだ。その風が延焼を速めている。自動車修理マニュアルのサインの入ったページも落ちていた。家の断熱材の焼けた大きな塊もあった。

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Maker Mediaでいっしょに働いている仲間たちは、家は焼けなかったが、火災の影響は受けていた。Maker-in-ChiefのSherry Hussは、夜中の2時にソノマの母親を助けに行った。 Accounts Payable ManagerのKelly Marshallとその子どもたちは、一時避難してデパートの駐車場に停めたトレーラーの中で一夜を過ごした。Operations, Production, and Logistics ManagerのRob Bullingtonも避難した。昨夜はSenior Sales ManagerのCecily Benzonがソノマから避難してきて、まだ家に戻ることができずにいる。Email Marketing CoordinateのSean Kincaidの状況はわからなかった。家を焼かれたと思っていたが、彼の家はCoffey Parkで無事だった数少ない家のひとつだとわかった。しかし彼らにはそれぞれに、家を失った友人や同僚がいる。Facebookでの最新情報を見ると、直接被害を受けた人たちの様子を知ることができた。

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集結

災害は誰のみにも起きる可能性があり、家や財産や、最悪の場合は愛する人を失う恐怖に襲われる。今年は、いろいろな場所で災害が起きた。まるで、災害が列をなして襲ってくるようだ。しかし、別の側面から災害を見ることもできる。私たちは弱いからこそ、互いに力を合わせなければならないのだ。こんなときこそ、私たちは仲間意識を持つことができる。たとえ遠く離れていてもだ。政治や人種や宗教の分断がニュースで騒がれているが、この災害は私たちに、互いに必要とし、助け合う結束の意識を思い出させてくれた。

ソノマの消防士、Nathan Komanは、私の以前の同僚、Richard Komanの息子だが、今日、任務を終えて、多くの人たちの働きを讃える感謝の気持ちを書き表していた。

地元の消防隊員は、山火事が始まった日曜日からずっと働きづめで、めちゃくちゃ悲惨な現場でクレイジーなほど必死に頑張った。全国からも消防士が集まってくれた。彼らがいなければ助からなかったろう。方々の現場で救助要請を受けて駆けつける救急医療隊、救急救命士、看護師の働きは見事だった。医療スタッフ(医師、看護師、医師事務作業補助者、認定看護管理師、放射線技師など)も病院や診療所やシェルターに戻ってきた。自分の時間とエネルギーを割いて被災者の世話をする市民ボランティアも素晴らしかった。警察は家々(と火に包まれた我々)を守ってくれた。消防士やその他の必要とする人たちに、大量の食料や物資を寄付してくれた人もいる。焼け出されて迷ってしまった動物たちを探して助ける人たちもいた。

これは大変な災害だったけど、私は消防署や救急医療や、この地元の街のコミュニティの偉大さを実感した。大勢の人たちが集まって、みんなで助け合った。みんながそれを称賛していた。私はソノマ郡が大好きだ。今回の災害によって、ソノマ郡はその強さと復元力を証明して見せた。きっと立ち直れるだろう。感傷の時間は、もうおしまいにしよう。

Maker にできること

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こうした災害に対して、Makerを組織して役に立てる方法があればと思う。それを簡単に行うためのインフラはまだないのだが、できようとしている。消防士や救急医療隊のように、適切な訓練を受けたMakerが災害の復興のために役立つことはできないだろうか。Makerを組織化して再建や修理に当たるのだ。

Makerムーブメントは、こうした問題に対処するツールやアイデアや専門技術を提供できる。人道支援団体も行政機関も、デジタルファブリケーション技術が復興にどれだけ役に立つかをほどんど理解していない。Makerは、その知識や経験を人々に提供し、新しいものの作り方を教えることができる。ヒューストンでは職人が不足しているというではないか。

私は数週間前に、ニューヨークのWorld Maker Faireでこのアイデアを話した。Maker Faire MiamiのプロデューサーのRic Herrenaと、Maker Faire HoustonのDavid BrunetとLisa Brunetには、長期にわたる復興にMakerを役立たせるにはどうしたらよいかを聞いてみた。Lisa によると、Houstonのメイカースペースの一部は洪水に流されてしまったという。私は、Mediumの記事で発表していたアイデアについて話したがっていたShopbotのBill Youngに連絡をとった。そして、ハリケーンの瓦礫をアップサイクルして、新たな建築物の資材にする方法を探れるだろうと話し合った。

海兵隊にメイキングの基礎を教えているBuilding MomentumのBrad Halseyにも話をした。彼は、どんな支援ができるかを調べようと、バージンアイランドに向かい、人道支援のためのスタートアップ、Field Readyに参加している。Bradの活動は、TwitterまたはFacebookでフォローできる。

(島に残った唯一の工房で、Maker たちは災害救援隊となった。工房と人々がつながって、大きな力になっている)

Field Readyは、すでにハイチやネパールの被災地で活動を行っている。

私はMaker FaireでNation of Makersと、Makerにできる支援の方法について話し合った。その後、Executive DirectorのDorothy Jones-Davisが電話やメーリングリストのとりまとめを行ってくれていたのだが、先週、初めての電話を受け取った。Bradは、島に工房があったことと、技術を持つ人がいたことが大変に助かったと話してくれた。島に持ち込まれた発電機のうちの多くが修理を必要としており、工房の人々は、懸命にその修理に当たっているという。

Maker Faire Austinを運営するJoey Ficklinは、テキサスを救済するためのBurners Beyond Bordersに参加している。すでに小さなグループが被災者支援のためのプロジェクトを立ち上げているが、Joeyは全国のメイカースペースを巻き込めないかと考えている。彼が今やるべきだとわかったことは、標識の立て替えだ。必要な標識とそのサイズのリストが作れたなら、メイカースペースがそこから作りたい標識を選び、製作して、テキサスに送ってもらえる。現在は小さなグループで実験中だが、もっと広範囲で行える方法を探している。

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Jon Schererはふるいを作っている。灰をふるうためだ。

被災者支援のため Makerにできることは、少なくとも3つある。

・1週間以上、現地に滞在してメイカースペースを作り、作業を組み立て、人々に仕事の方法を教える。
・被災地で役に立つものを開発する。デザインや作り方を公開するだけでもよい。また現物を製作して現地に送ってもよいだろう。
・Joey Ficklinのように、今あるメイカースペースで、現地では製作が難しいものを作って送る。

「Make:」では、Maker ShareのDisaster Relief Mission(災害救援ミッション)として、8つのプロジェクトを公開する予定だ。すでにこうしたプロジェクトに参加している人は(すでに多くの人が参加しているが)、あなたの話やプロジェクトについて教えてほしい。また、実際に何が必要とされているのかも教えてほしい。災害が去って、全国版のニュースでは報道されなくなったとしても、被災地では、家や街の経済を立て直し、元の生活に戻そうとする努力が続いていることを、どうか忘れないでほしい。

原文