Science

2009.06.05

アホであることの大切さ

Text by kanai

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UVA MicrobiologistのMartin A. Schwartz は、Journal of Cell Scienceに面白い記事を書いている。彼が言うところの “創造的愚” の大切さに関する内容だ。

我々が博士課程の教育において、学生に対して行っている2つのひどい仕打ちについて指摘したい。ひとつには、学生たちが、研究がいかに難しいものであるかを、まったく教えられていないことだ。特に重要な研究を行うことは、ものすごく難しい。ものすごく厳しい科目を取るよりも、ずっと難しい。なぜ難しいのかと言えば、研究とは未知の物事への没頭だからだ。自分が何をしているのかすらわからない。答や結果が得られるまで、自分の疑問は正しいのか、正しい実験を行っているのかすらわからない。たしかに、科学は、一流雑誌のトップに掲載されるための競争によって、さらに難しいものになっている。しかし、そうした事情を考慮しなかったとしても、目覚ましい研究とは本質的に困難なものであり、部門が、研究施設が、はたまた国が政策を変更したところで、その本質的な難しさが軽減されるわけではない。
2つ目は、私たちが、学生を創造的愚者に育てるための十分な努力をしてないことだ。つまり、自分が馬鹿だと思えないならば、心底努力していないということだ。ここで言うのは “相対的な愚かさ” ではない。クラスの他の学生が資料を読み考察し試験でAを取ったが自分は取れなかった、という話ではない。また、非常に才能ある人々が、その才能を発揮でいない職場で働いているといった話でもない。科学は、自分自身の “絶対的愚” と対峙する要素を含んでいる。この愚は実存的事実であり、自らの方向を未知の中へと推し進める努力に内在している。学生が間違った答えを言うようになったり、根を上げて「わかりません」と言うまで教授会が粘れるならば、予備試験や論文試験は有効だ。試験の目的は、学生がすべてに正しく答えられるかを見ることではない。もし、すべてに正解できるようなら、教授会が試験を失敗したことになる。重要なのは、学生の弱点を見極めることだ。それは、一部には、努力目標をどこに置くかを見ることであり、一部には、実際の研究に役立つ十分に高度なレベルでの知識の欠落の有無を見ることである。

The importance of stupidity in scientific research(英語)[ありがとう、Arwen!]

– Gareth Branwyn
原文