Science

2009.06.03

かつてここは宇宙船工場だった

Text by kanai

今行われているスペースシャトルミッション(STS-125)が、もうすぐ終わるけど、シャトル自体の寿命も近づいていて、最後のミッションは2010年の予定だ。先日、カリフォルニア州のロサンゼルス近郊のダウニーを訪れたとき、ある施設を見学する機会を得た。今は廃屋になっているが、こここそが、スペースシャトルが生まれたところであり、それ以前は、アポロ宇宙船が生まれたところだ。つまり、アメリカの宇宙航空産業が発祥した場所というわけだ。今日、この施設は Downey Studio(ダウニースタジオ) と呼ばれている。一部が映画の撮影などに利用されているからだ。
しかし、ひっそりと置かれている宇宙船の残骸は、当時、ここで作られていた物がいかに大きく、いかに重要なものであったかを物語っている。ここに人生をかけていた技術者たちの会話が、響き渡ってるようにも感じられる。私は、その中の散らかった部屋に事務所を構えるAerospace Legacy Foundation(航空宇宙遺産財団:Gerry Blackburn会長)のメンバーと会うことができた。そこは、Gerryのような引退技術者の第二の家になっている。Gerryは、高校を卒業してから(当時はボーイングの工場だった)1999年に閉鎖されるまで、ずっとここで働いていた。財団は、アメリカ人の宇宙船建造の歴史を伝えるために、この場所を後世に残す努力をしている。
子供のころに飛行機の模型を買ったり集めたりしなかった?
Aerospace Legacy Foundationの事務所に初めて足を踏み入れると、そこには鉄のファイルキャビネットがぎっしりと並んでいて、X-15の模型が飾られていた。私も子供のころ、この飛行機の模型を本棚に飾っていた。あこがれの飛行機だった。すると、このダウニーの施設にある大小さまざまな模型の存在に気がついた。
X-15
Gerryは、この施設について大まかな説明をしてくれた。広さは約90エーカー(約364平方キロメートル)。1929年に飛行機の製造工場が建てられた。その後、持ち主は何度も交代したが、テーマは一貫していた。
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そんな持ち主の一人に、Gerry Vulteeがいた。1930年代の航空設計士だ。彼の会社は、後にConsolidated Vulteeとして知られるようになった。この会社のロゴマークが、ここのメインの建物の古いカーペットの下から出てきたそうだ。
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第二次世界大戦の間、Vultee Aircraftは、練習機BT-13 Valiantを製造していた。しかしこの工場は、実質的にNorth American Aviationに占拠されることとなり、ミサイルとロケット推進、誘導システム、航空電子工学の研究に使われた。1961年、ケネディ大統領が、60年代の終わりには人類を月に送り込むという計画を発表してからは、ダウニー工場は、誕生したばかりのNASAから、サターン5型月ロケットの設計(建造はこの近くのシールビーチで行われた)と、アポロ司令船とサービスモジュール開発という2つの契約を取り付けた。North American Aviationは後にRockwell Aviationとなり、やがてボーイングに吸収された。
この施設を使っていた人たちのサイン。下にあるのは、ここが飛行場だったころに使われていた管制塔の土台。
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工場の建物は、北向きのギザギザ屋根で、天然の太陽光が入るようになっている。しかし、第二次世界大戦の間は、工場の外側はカモフラージュに覆われ、窓は黒く塗られていた。戦争が終わったあとも、面倒だからとそのままにされていた。
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大きくDowney Studiosと書かれたビルティング290には、アポロロケットの組み立てとテストができるよう、大小2つのベイが用意されていた。建物に塗られた色は、工場のその後の人生を物語っている。ほどんどベージュだ。ビルティング290の内部には、エアロックとクリーンルームがあり、中は真っ白に塗られている。「空を飛んだアポロはすべて、ここで組み立てられたんだ」とGerryが話してくれた。
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ここには今でも、さまざまなテストに使用された2種類のアポロカプセルの “ボイラープレート”(テスト用機体)が置かれている。ひとつはパラシュートシステムの実験用だ。かつては大きなプールとクレーンがあり、カプセルの浮揚性の実験が行われていた(財団のサイトに写真がある)。(Gerryによれば、ロングビーチ港で行われた初期の実験では、カプセルは5分で沈没したそうだ)
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私は、この工場で働いていたという数人の男性にも会った。Gerryが働き始めたのは19歳のときだが、Marvと名乗る男性は、シンシナティ大学を卒業後、直ちにここへ来て、現役人生のすべてをここで過ごしたという。「我々は、最後までひとつの企業で働き通すのが普通だった最後の世代だな」とGerryは振り返る。60年代の労働力の中心は20代の若者だった。アポロ計画の絶頂期だ。彼らの多くは、40代後半から50代前半の頃に、スペースシャトル計画にも携わった。この工場が閉鎖されたのは、ちょうどその頃だった。
Gerryは、NASAの仕事が始まったばかりの頃のことを話してくれた。当初、NASAはクライアント扱いだったという。
「彼らは科学者で、我々は技術者だった。彼らには山ほどアイデアがあり、その中から、我々が実現可能なものを選んで教えてやった」
そうした関係には緊張感があったが、数年後には、NASAも独自の技術力を身につけるようになっていた。思うに、雰囲気は次第に官僚主義的になっていったのだろうね。それが、こんなイタズラ書きを生んだのかもしれない。(訳注:下の写真。Our People-Working Together[共に働く仲間]の先頭にSがついてSour Peolpe…… となっている。気難しい人たちと働く、てな意味かな)
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近くには、建設中のColumbia Memorial Space Centerがある。今年の秋にオープンの予定だ。子供たちが “インタラクティブ” に宇宙について学べる施設だ。このダウニー工場も、歴史部門で組み込まれる予定だ。
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今回の訪問の、いちばんいい話を最後にしよう。スペースシャトルも、最初は木製の実物大模型から始まったと言える。この模型は、大きな暗い建物の中でシートを被って放置されていた。
Space Shuttle Mockup - 02
Space Shuttle Mockup - 01
この模型は、シャトルのデザインを売り込むために作られたものだが、開発にも多少は役立っている。設計のテストにも使われた。ボーイングの工場では、シャトルの前と後ろの部分を製造していた。もっとも重要な部分だそうだ。その他の部分は下請けに回されていた。
Space Shuttle Mockup - 09
Gerryによると、シャトルの主翼の形には、2種類の候補があったそうだ。ひとつは、ほとんどの設計者が推奨していたスタブウィング型だ。しかし、翼幅の広いもうひとつのデザインのほうが通ってしまった。国防総省の差し金だ。シャトルを軍事利用することを想定していたからだ。「想定していた」という部分に、Gerry は皮肉を込めていた。
Space Shuttle Mockup - 13
ダウニー工場の70年の歴史は、南カリフォルニアにおける航空宇宙産業の拡大と衰退の歴史でもあった。セントルイスは、マクダネルダグラスのお膝元として、航空軍事産業の中心となった。シアトルは、ボーイングのお膝元として民間航空産業の中心となった。しかし、南カリフォルニアは、航空宇宙の分野のリーダーとして浮上した。
なぜ、南カリフォルニアが、そうした役割を担うようになったのかと、Gerryに尋ねてみると、彼は、一言でこう答えてくれた。
「天候だよ」
晴天の日が多いから飛行テストがやりやすかったというわけだ。とはいえ、ひとたびここに工場ができれば、ロサンゼルスには才能ある技術者が、他に類を見ないほどたくさん集まってきた。1990年代、NASAは、製造部門を南東部のケープケネディに近い地域に移す計画を立てていた。カリフォルニアにいられたのには、いくつもの政治的な理由があったのだろうが、本当の理由は、技術者の質と量だ。多くの技術者は、ロサンゼルスを離れて南東部に移り住みたいなどとは思っていなかった。Gerryによれば、1999年に工場が閉鎖されたとき、転勤に合意した技術者は全体の20%に過ぎなかったという。残った者の一部は、民間の宇宙関連企業を立ち上げたりしたのだろう。
最大の注目と賛辞を浴びるのは宇宙飛行士だが、彼らの命を支えているのは、あの巨大な宇宙船を、設計から模型から、やがて現実の乗り物へと作り上げてきた技術者たちだ (現在のダウニースタジオでは、小さなMakerたちのチームが我々に夢を与えるための現実の幻想を作っている)。スペースシャトルは、まもなく任期を終える。しかしNASAが次世代の宇宙船を運航するようになるまでには、まだ5年以上かかるだろう。
このほかのダウニー工場の写真は、FlickrのAerospace Legacy Foundationセットを見てほしい。
– Dale Dougherty
原文