シェークスピアは「ペン科学」や「紙科学」を学んだだろうか? そんなはずはない。私たちも、論文を書きたいと相談されたときに、その前に言語学を習えとは言わない。ところが、アートや人文科学の学生は、コンピューターで自分のアイデアを表現するために、コンピューター科学を学ぶように指導される。
コンピューター科学では、学生はコンピューターの理論を学び、さまざまな形の計算を試す。これはこれで素晴らしい学習であり、この道が最適だという人もいる。しかし、コンピューター科学は、たいていの場合は答えにならない。コンピューター科学では、コンピューターだけを見る。コンピューターが目的なのだ。アルゴリズムの効率性を研究するのがコンピューター科学であり、そのアルゴリズムが社会や表現方法にどう役立つかは問題とされない。
世界はコンピューターを通して見た方が、より生産的になると私たちは考えている。コンピューターそのものを完璧なものにすることより、そのパワーを世界を覗くレンズとして活用したいと考えている。私たちは、コンピューターとコンピューターの機能を私たちの情熱に応用するというこのアプローチを説明するために、「計算メディア」という造語を考えた。
シェークスピアは「ペン科学」を学ぶ必要がなかったわけだが、彼の演劇を記述するためには、ペンの使い方をマスターしなければならなかったはずだ。もっとよい例は、ジャクソン・ポロックだ。ポロックは絵の具を作るための科学を学んだことはなかったが、自分のスタイルに必要な絵の具の混ぜ方や薄め方を自分でマスターしていた。絵の具を垂らして描く彼のテクニックにぴったりの絵の具を作る必要があったからだ。同じように、コンピューターで自分のアイデアを表現したいと思ったら、プログラムを学ぶ必要がある。
これをマスターするには、私たちはただ考えるのではなく、コンピューター的に、コンピューターを使って考える方法を学ばなければならない。コーディングを学ぶ必要があるが、それはコーディングのためのコーディングではなく、アートや市民学や文学や科学といった、何か別のことにそれを役立てるために学ぶのだ。その中心には、人類愛と人類を第一に考える精神がある。それが、個人から始まり、グループ、そしてみんなの情熱へと、テクノロジーの応用を促してゆく。
ニューヨーク大学で38年以上もの間、大学院のプログラムとして続いてきたITPの目標は、まさにこうした新しい技術を情熱に結びつけることにある。ITPは、1979年、ニューヨーク大学の一部であったTisch School of the ArtsのInteractive Telecommunication Programとして始まった。1979年、ITPの創設者、Red Burnsは、新しい技術が認識度や人に与える影響に変化をもたらすことに気がついた。そして彼女は、そのころ発売されたばかりの世界初のポータブルビデオカメラ、ソニーのポータパックを使い、当時のニューヨーカーの日常を映し出し、彼らが抱える問題の解決に結びつけた。それから数十年が経過し、技術はポータブルビデオからレーザーディスク、電話端末、CD-ROM、インターネット、そして今や機械学習や仮想現実へと変化しているが、新しい技術を人間的なものにして、よりよい世界作りのために役立てるというITPの使命は変わっていない。
現代の日常生活では、新しい技術は、ごく普通に受け入れられるようになっている。インターネットやスマートフォンがもたらした変化を私たちが受け入れたように、これから私たちは、人工知能、機械学習、仮想現実、自動運転車といった技術に集団として意識を向けようとしている。こうした技術がもたらす急速な変化を受けて、私たちは、今こそ私たちのアイデアを多くの人に伝えるときであり、問題に関わる考えや表現にコンピューターの力を活用するときだと判断した。そして大学生たちも、このことをしっかりと理解し、再発見しなければならない。そこで、私たちは、学部生のためのInteractive Media Arts(IMA)プログラムをスタートさせることにした。大学生としての成長段階で、その情熱を引き出すのが狙いだ。
さらにIMAでは、学生が目指すものは計算メディアだけではない。むしろ、そうであってはならない。私たちは専攻をもうひとつ持つように勧めている。また、一般教養の受講の重要性も説いている。ちなみに私たちのコースでは、メディアとエンターテインメント、フィジカルコンピューティングと新しいインターフェイス、計算とデータ、アートとデザインを学ぶ。
コンピューター科学はどんどん発展してゆくべきものだが、結局のところ、その本当のパワーが発揮されるのは、それが現実に活用されたときだ。新しくてエキサイティングな技術に出会ったとき、私たちは必ずこう考える。よりよい世界を作るために、これをどう活用できるだろうかと。
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