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2019.11.13

「How to make(作り方)」と「Why to make(作る理由)」の違いを考える—「SFPC Summer 2019 in Yamaguchi」レポート #2

Text by editor

編集部から:この記事は、城一裕さん(九州大学大学院芸術工学研究院/山口情報芸術センター[YCAM])、大網拓真さん(FabLab SENDAI – FLAT)に執筆していただきました。

前半(リンク)に引き続き、SFPC Summer in Yamaguchiのレポートをお伝えしていく。

今年の夏、山口芸術情報芸術センター(以下、YCAM)にて開催された、SFPC Summer 2019 in Yamaguchi(SFPC = School For Poetic Computation)を全2回にわたってお伝えする本レポート。今回は後編。前回は、SFPCのコミュニティづくりの工夫と理由に焦点を当てた。今回は、プログラムの名前にもなっている“ポエティック・コンピュテーション(Poetic Computation)”とはいったい何だったのか? についてもう少し掘り下げていこうと思う。


それぞれの視点からテクノロジストとアーティストの社会的役割をみんなで議論

まず、事前に書いておきたいのは、SFPCでは“ポエティック・コンピュテーション”の明確な定義を言葉で教えることはなかったということ。というのも、このプログラムの趣旨は、効率や生産性重視ではないテクノロジーの詩的(個人的には、“私的”ともいえると思う)な使い方を見つけるためのものであり、それは人によって異なるためである。なので、これから書いていくのは、一人のメイカーであり、メイカースペース運営者でもある私の視点から見た“ポエティック・コンピュテーション”であり、他の参加者にもそれぞれの捉え方がある。他の参加者もそれぞれのブログやメディアでSFPCについての体験記や考えをつづっているため、より深く知りたい方は、ぜひそちらも呼んでいただきたい。以下に一部であるが、同級生たちが書いたSFPCの記録へのリンクを載せておく。

●SFPC Mediumアカウント
DAY1 / DAY2 / DAY3 / DAY4 / DAY5 / DAY6 / DAY7 / DAY8

SFPCの公式ブログ。プログラム前日の記録が参加者のリレー形式で書かれている。それぞれのクラスの詳細が知りたい方は、こちらを見ていただきたい。

SFPC in Yamaguchi — Thanksgiving for the program by Bohyun Jung

韓国からの参加者ボヒュン・ジュン氏のブログ。日韓関係が緊迫した時期でのSFPCへの参加、そしてテクノロジーが持つ問題と可能性への気づき。その体験すべてが周囲の人々へのリスペクト、細やかな心遣いと共に語られている。個人的に一番ぐっと来た体験記。

●SFPC 2019 Summer報告-「違いは違いのままで」by Nariaki Iwatani
#1 / #2

プログラマとして活躍する岩谷成晃氏の記事。論理的でありながらも、暖かみのある語り口でSFPCでの体験を記している。岩谷氏のかっちりと整理された考えが読んでいて心地よい。

もちろん、この他にもNYのSFPC卒業生や、山口のように短期で行われたSFPCプログラムのログがたくさんあるので、「SFPC diary」などで検索してみて欲しい。

それでは早速、自分にとってのポエティックの解釈を書いていく。着地点にたどりつくまでに、SFPCの要素や理念を説明していくので、少し迂回気味になるところもあるがちゃんと関係しているので読み進めていってほしい。

先にも書いた通りSFPCは、明確に“ポエティック・コンピュテーション”の意味を言葉で定義しない。しかし、クラスでは講師陣それぞれが思う、これはポエティックだという作品や過去に起こった事例などの紹介を大量に行う。


折り紙研究者でもあるボビー・クラフトの数学教室。どのクラスも講師自身の教科に対しての情熱が感じられた

ポエティックという絶対的な1つの解を決定するのではなく、ポエティックという意味はそれぞれが考えればいいという投げっぱなしの態度でもなく、むしろそれぞれが自分の中に落とし込めるような形でポエティック・コンピューティングのイメージを構築できるよう全力でサポートしますよというスタイルである。

失敗できる教室

SFPCは失敗を快く受け入れる。「生徒の個性を引き出すためには、失敗できる教室が必要」(メラニー・ホフマンのトークでの発言)。そもそもSFPCは、従来の教育システムに対して疑問を持った創設者たちが考案したプログラムである。そのため今まで自分が受けてきた教育方法へのカウンターカルチャーというか、もう一つの選択肢のような状況になったことが数多くあった。そのなかでも、受講して印象に残ったのは、たびたび講師たちが口にする「プレッシャーは感じなくて良い。ここには、厳密な〆切もない。」という言葉だった。


毎日夜遅くまで課題の製作や実験を繰り返す参加者たち。場所を提供してくれたYCAMスタッフに感謝

SFPCは学位を授与するような機関ではないために、生徒を評価する必要がない。逆に言えば、生徒は評価という〆切を気にせず思う存分“考え続けることができる”。通常であれば、授業と成績評価はセットであり、生徒は学期末までのあいだに教わった知識を整理し、来るべきテストに備え、仕上げるべき製作を終わらせなければならない。しかしながら、正しい答えを決めるという行為は、他の可能性の追及をやめることとつながることが多い。この問題楽しい! ほかに解決策ないのかな? と調べようとしても、そっちは次のテスト範囲じゃないからとか、別にそっちの知識を得たところで内申点があがるわけでもないし、とあきらめた経験がある人は多いのではないかと思う。もちろん、円滑で効率的な学校運営に成績評価が必要なのも分かる。しかしそれは評価される側ではなく、評価する側の都合が大きいことをしばしば大学や高校で授業を任される身としては心に命じておきたい。


会場には各クラスの内容に関係する書籍が隣接する図書館よりセレクトされて置かれていた

この考え続けるという行為は、答えを出さなくて良いんじゃなくて、今自分が持ってる答えを絶えず更新していくこと。クラス中に数多くの参考資料と、失敗を気にせずトライ・アンド・エラーを繰り返しながらの学習できる環境によって快適にそれを行うことができる。

手と頭を動かしながら、繰り返し自分自身に問いかけることで、“作るべきもの”ではなく本当に自分が“作りたいもの”を見つける。それが引いては自分にとっての美しさであったり、ポエティックなテクノロジーとの付き合い方に繋がる。

More Poetry, Less Demo

SFPCのモットーとして“More Poetry, Less Demo”という言葉がある。ここで言うDemo(デモ)とは利便性、効率または機能を追い求めた試作のこと。つまり直訳すれば、“デモよりもポエティックに”という意味。これは明らかにMITメディアラボの標語のひとつである“Demo or Die”(実際にデモを見せられなければ、意味がない)へのカウンターである。

会期中に催されたパネルディスカッション中で、SFPC共同創設者であるチェ・テユンが「あなたにとってアートとはなんですか?」という質問に対して答えた「アートとポエトリーは利便性に対しての抵抗みたいな性質を持ってると思う」という言葉、そして“More Poetry, Less Demo”という言葉についての説明を求められた時の「MITだけでなく多くのテクノロジー業界では、商品を中心に置いたテクノロジー利用が重視され、そこでは人々を人間ではなく消費者とみなしている。これは、毒のようにじわじわ効いてくると思う。そういった状況に対してのオルタナティブなアクションであると個人的には考えているんだ。一方でSFPCにはAppleやGoogle出身の参加者や講師も多い、彼らと決別するのではなくテック企業の中に味方を見つけることで、外と中から現状を変えていけるんじゃないかと思う」という発言。ここから、“More Poetry, Less Demo”というモットーが自分たちが使うテクノロジーそのものだけでなく、それが社会あるいは身近な人間関係にどういった影響を与えるのかを考える姿勢であり、だからといってテクノロジーに対して消極的になるのではなく、むしろポジティブに、個人的に、誰かへの思いやりをもってテクノロジーと接していくべきではないか、というメッセージを含んでいると実感した。また、“Technology as a gift”というテーマをなぜ彼が選んだのかを理解するのに十分な説明だった。


会期中には、SFPCについてのパネルディスカッションが一般公開された

「How to make」と「Why to make」

期間中に、Family Dinnerという皆で夕飯を囲む機会が何回かあった、その時に同級生の1人から「How to make(作り方)」じゃなく「Why to make(作る理由)」を考えるワークショップはSFPCがはじめて、という声を聞いた。その場では、それ以上は深く議論しなかったが、今こうして自分の工房に戻り、レーザーカッターや3Dプリンターに囲まれているとあの言葉の重みがどんどんと自分の中で増している。こういったメイカースペースを運営していると、想像以上に“なにか作りたいんだけど、なにを作ればいいか思いつかない”人たちと出会う。工作マシンの使い方を学びに工房に来るのだが、その後マシンを使う目的を自分で作り出せないのだ。もちろん中には、手でやった方が早いからマシンに頼らない人や、マシンが思ったような性能でなかった人もいるのは承知している。ただ、テクノロジーの進化で使える道具は増えたものの、それによって作りたいものを考える、もしくは見つける方法がおざなりにされてると感じるのは私だけだろうか?


Family dinner中、同級生との何気ない会話からヒントを得ることも多かった

ある建物内にスペースが余ったので、そこにデジタル工作機械を入れてメイカースペースにした。しかし、ユーザーが思うように現れず数年後には潰れてしまった。同業者として耳の痛い話だが、決して珍しい話ではない。しかし引いて見れば、この状況の底には、「How to make」に過度に注目し、「Why to make」を気にかけなかったことが大きな原因の1つにあるように思えてならない。

今回のレポートに書いてきた要素を踏まえると、メイカーとしての私にとってのSFPCは冷静になって落ち着いたメイカームーブメントの現状を省みる良いチャンスでもあった。それは、ある面においてはテクノロジーに流されるまま使うことへの警鐘でもあり、目先の技術的な利点が長期的に見れば欠点になってしまう可能性への示唆でもあった。しかしながら、そういった批判的な部分だけでなく、同時にパーソナルファブリケーションとポエティック・コンピュテーションのつながりのようなものも多く発見できた。効率や生産性に縛られず、自分にとって何が大切なのか問い続ける姿勢は、まさに手と頭を動かし続けながら自分や身近な人のためにとって何が大切なのかを考え、設計し、トライ・アンド・エラーを繰り返すパーソナルファブリケーションの原始の姿と重なる部分が多い。

そして、このポエティックに対する私の考え方も、世界の状況の変化や時間の経過によって変っていくだろうし、更新し続ける必要があるだろう。次に、山口で出会った同級生たちとそれぞれのポエティック・コンピュテーションについて語り合う時が楽しみだ。(大網)


最終日には、このイベントのために作成されたTシャツが配布された


以上2回に渡って大網拓真氏による「SFPC Summer 2019 in Yamaguchi」の体験記をお届けした。レポートの最後に記されている、「Why to make(作る理由)」を踏まえたメイカームーブメントの現状の分析を始めとして,メイカーならでは視点からの示唆に富んだ内容になっている。文中のリンクでも示されているように、多様な参加者それぞれの体験の集積となった今回のSFPC、企画者の一人としても,記憶に残る出来事があったので最後に少しだけそのことについて触れたい。

今回の講師の一人であり,NY側の企画者であるテユンとYCAM側との事前打ち合わせの中で、日韓関係が話題に上がった。はじめは雑談から始まった会話であったが、こちらがふと「どうしてこんなにもお互いが過剰に反応しているのかわからない」と話したところ、「どうして過剰だと思うのか」という問いが返ってきた。その際にはどうにも表層的な答えに終止してしまったのだが、『Code of Conduct(コード・オブ・コンダクト)』を実際に運用し終えた今であれば、(望むと望まざるとの)加害(ないしは被害)の文化*を引き受けた上で、お互いの立場からの理解を深め合うことができるのではと思う。

* 東浩紀「悪の愚かさについて」(「ゲンロン10」収録)に記されていた言葉。なお、今回のSFPCでは、数少ない日英両方の言語で出版されている日本人によるテキストとして、彼の『一般意志2.0』を課題図書として取り上げた。

先日行われた「Mini MakerCon Tokyo 2019」の席でも、メイカーの意義をその外へと伝えるためのコード・オブ・コンダクトという話題が出たが、空気としての共感を前提とした同質の人々によるコミュニティ、ではなく、他者を他者として認めた上で、より開かれた場にしていく、という考え方を、ポエティック・コンピュテーション(Poetic Computation)を通じて学ぶことができたのが、個人的には大きな収穫だった。(城)

(撮影:竹久直樹/写真提供:山口情報芸術センター[YCAM])