Science

2011.02.18

チャレンジャーを偲んで

Text by kanai

Christa_McAuliffe.jpg無重量訓練をするクリスタ・マコーリフ。
私がこの世界に入るずっと前から、自分のやりたい仕事を見つけるずっと前から、私は宇宙飛行士になりたかった。
別に珍しいことではない。Makerのみんなも、人類の想像が及ぶかぎり遠くまで探検してみたいと思ったことは、一度や二度はあるだろう。私は、数学者だった父から、ニール・アームストロングとマイケル・コリンズとバズ・オルドリンがアポロ11号で月に着陸したとき、どこにいたかという話をずっと聞かされて育ってきた。地球から打ち上げたロケットを、38万キロ彼方のターゲットに寸分違わず着陸させたエンジニアリングの離れ業と、そこで活躍した数学に夢中だった。あれはガソリンスタンドで働いていたころで、父が月着陸のニュースが知らされたとき、街からは歓声が聞こえてきたそうだ。その話を父が夕食の席でするときの、大げさな身振り手振りを今でも思い出す。
今から25年前の今日、パークアベニュー小学校の生徒だった私は、他のクラスメートといっしょに教室に集められた。そこへ、古いコートハンガーをアンテナ代わりに使ったボロボロのテレビ(テレビ番組がまだ無料で見られたころだ)が運び込まれた。そんなことは滅多にあることではなかった。だから私たちは胸を躍らせた(昼間からテレビが見られるなんて、最高にラッキー! とね)。先生たちも興奮してチャンネルを合わせると、発射台に載せられたシャトルのざらざらの映像が現れた。教室に軽い電気が流れているような感じがした。私たちは椅子の上で落ち着きなく身もだえしながら、先生たちはうれしそうに微笑みながら、カウントダウンを聞いた。そして間もなく、シャトルは発射した。
今思うと、どうして小学校の先生たちが、チャレンジャーの打ち上げにあれほど興奮していたのかと言えば、第2ペイロードスペシャリストとして、ニューハンプシャーの社会科教師クリスタ・マコーリフが搭乗していたからだ。彼女は、”宇宙を飛んだ初めての学校教師” になるはずだった。いやそれよりも、どんな社会的地位の人も、彼女に共感していたからだ。彼女は、誰もが手の届くところから始めて、やがては大きな偉業の立役者になれるということを、身をもって証明してくれたのだ。
しかし、様子が変だ。何が起こったのか、よくわからなかった。覚えているのは、先生の顔だった。彼女は組んでいた腕をほどき、テレビに身を寄せた。顎がこわばっていた。誰かが息を呑むような、叫ぶような声をあげた。するとひとりの先生がテレビに駆け寄りスイッチを切った。みんな黙っていた。そして私は、わけもわからず泣きだした。しかし泣いているのは私だけではなかった。
あのときの記憶は私の中で眠っていた。もう子供のときのような感情とは縁が切れていた (あるいは、そう思っていた)。しかし、2003年2月1日、よく思い出せないがなにかのカンファレンスの準備でホテルに泊まっていたときだ。テレビが付いていて、なんの気なしに見ていたニュースから、テキサス上空でコロンビアが空中分解して7人の宇宙飛行士全員が死亡したと気かされた。あのときの感情が戻ってきた。私はベッドに座って泣いた。今、これを書いている間も、何かがこみ上げてくる。
ケネディ大統領暗殺のときのことを覚えている一世代前の人たちと同じように、私たちの世代はチャレンジャーが爆発したとき、どこで何をしてたかを覚えているようだ。私も、ハッキリと覚えている。テレビの画面で、晴れ渡った空に稲妻が枝を伸ばしたような、白い煙の尾を引く2つの破片を不思議そうに見ていた。その日、そのあと何をしたのかはよく覚えていないが、私が学校から帰ると、ちょうど父も仕事から帰ってきて、私を抱きしめてくれた。私がそうしてほしいことを、父はわかっていたのだろう。あの日のことは決して忘れられない。
ここで、私の座右の銘でもある、NASAのフライトディレクターで宇宙開発のヒーローのひとり、ジーン・クランツの言葉を引用したい。これは、アポロ1号の火災のあとに、彼のチームに対して行ったスピーチだ。私は、何かに行き詰まると、何度も繰り返し、これを思い出すことにしている。そしてこれは、偉業への道が、失敗の石畳でできるということを、いつも思い出させてくれる。

宇宙飛行には、不注意と無能と怠慢を許容する余地がない。私たちは、どこかで、なんかしらのミスをおかした。それは、設計段階、製造段階、テスト段階のいずれであってもおかしくない。どこでミスが発生しようとも、私たちは、それを突き止めるべきだった。スケジュールを気にするあまり、毎日の作業で目にする問題を、考えないようにしてきた。計画の中のあらゆる要素が問題を引き起こし、私たち自身もトラブルを抱えていた。シミュレーターは動かず、ミッションコントロールは事実上あらゆる分野で遅れていた。そして、飛行とテストの手順が毎日変更された。長続きするものは何ひとつなかった。私たちの中に、「まずい、ちょっと待て!」と叫ぶ者がいなかった。トンプソンの委員会はどのような原因を探し出すかわからないが、私は、私なりに原因を突き止めている。原因は、私たち自身だ! 私たちは準備不足で、自分のやるべき仕事ができず、サイコロを振って、打ち上げの日までに物事がうまくまとまって、なんとかなるよう念じていただけだ。しかし、私たちは心の中で、奇跡が起きない限りそれはあり得ないとわかっていた。我々はスケジュールをこなしていた。ケープのほうが先にしくじるに違いないと期待していた。
本日から、フライトコントロールは2つの言葉で称されるよになる。”タフ” と “コンピーテント” だ。タフとは、我々はつねに、我々の仕事に、そして我々が置かした失敗に責任を持つということだ。もう二度と、自らの責任に妥協はしない。ミッションコントロールに入るときは、かならず、我々の信念を自覚するのだ。コンピーテントとは、何ものも満足しないということだ。知らないことがあってはならない。技術が及ばないことがあってはならない。ミッションコントロールは完璧になるのだ。今日、この会議が終わって全員がオフィスに戻ったら、何よりもまず、”タフ・アンド・コンピーテント” と黒板に書け。そして、絶対にそれを消すな。毎日、オフィスに入るたびにその言葉を見て、グリソムとホワイトとチャフィーが払った犠牲を思い出せ。その言葉が、ミッションコントロールの入場料だと思え。

宇宙へ飛び出すために、すべてを捧げようと決意した人たちに敬意を払いたい。あなたたちは、私たちの夢を明らかにしてくれる。そして、ときには命を賭けてまで、創造、探検、刺激への欲求を満たそうとする複雑な人類の精神の相互作用のなかで、最高の姿を体現してくれる。
訳者から:1986年1月28日、覚えてます。休職してニューヨークに住んでいたとき、朝、テレビを付けたら真っ青な空に白い雲のようなものが写っていて、音声がしばらく出なかった。その瞬間は、誰もしゃべってなかった気がする。最初は、何が起きたのか、ぜんぜんわからなかった。
– Stefan Antonowicz
原文