Electronics

2020.10.14

一人のメイカーとしてのエディ・ヴァン・ヘイレンのストーリー

Text by Dale Dougherty
Translated by kanai

最高のロックンロールギタリストと多くが認めるエディ・ヴァン・ヘイレンが、2020年10月6日に亡くなった。正直言って、私は彼の音楽をあまりよく知らない。しかし、彼の話をいくつか読んでみて、彼のことをもっと知りたいと思うようになった。

2019年、国立アメリカ歴史博物館がシリーズで制作しているインタビュー番組で、司会のデニース・キュアンに対し、エディ・ヴァン・ヘイレンは、彼自身と彼のバンドが独自のサウンドを作り出すために「ものすごくがんばった」ことについて語っていた。

エディ・ヴァン・ヘイレンはオランダからの移民で、1960年代に家族でカリフォルニア州パデナに移住してきた。エディと兄のアレックスは、音楽一家の中で育った。クラシックの教育を受けた音楽家の父から、2人は大きな影響を受けている。音楽的なものだけでない。音楽で生活を支える決意も父から学んだ。インドネシア人の母は、2人の息子にどうしてもピアノを習わせたかった。エディは、5年間レッスンを受けた末にピアノ教師を驚かせることとなった。彼が楽譜を読めなかったことを知ったのだ。彼は先生の手の動きを見て、音を頭で覚えて音楽を学んでいた。やがてビートルズとデイブ・クラーク・ファイブと出会い、アレックスはドラムを、エディはギターを始めた。エディは、ピアノは習っていたがギターを習ったことは一度もなかった。

私は、エディ・ヴァン・ヘイレンのプロミュージシャン人生の原点がDIYにあることを知って感動した。彼は自分の楽器、つまりエレキギターを自分好みに作り変えるために、ハッキングを始めたのだ。

「物を分解したいという欲求は、ひとつには必要性があってのことで、もうひとつには単なる実験だったりする。私はいつも、その物の本来の姿を押しのけていくんだ」と彼は話していた。そうする理由として、みんなが持っている楽器を自分は買えなかったから、しかたなくやったのだと説明している。

彼は、フェンダーのギターに付いているトレモロアームと、ギブソンのギターに付いているハムバッキング・ピックアップが大好きで、その2つを1台のギターに収めたかったと話している。ギブソンのピックアップの「ものすごくぶっといサウンド」が、トレモロアームから作られるハム音で相殺されるという。そこで彼は、フェンダーのコピーモデルのボディを買い、次にギブソンのギターからプックアップを取り外し、1つにまとめた。ギブソンのピックアップを収めるために、ノミとハンマーで穴を開けたという。「木材にピックアップを直接ネジ止めした」と彼は話す。こうして3ピックアップの「ギブソン・ストラトキャスター」が誕生した。「ボディーをほじくってハムバッキングピックアップを押し込んだんだ。ただし、すべてはそこに並んでるだけで、ハンダ付けはできてない」と彼は話す。3つのピックアップを2つの可変抵抗に配線する方法がわからない。「どうやってつなげばいいんだ? まったく手がかりがない」

ハムバッキング・ピックアップを1つの可変抵抗につないだらどうかと、彼は考えた。試してみたら「うまくいったんだ!」と彼は声を上げた。彼はそのギターを「ザ・フランケンシュタイン」ギターと名付けた。「フランケンストラト」と呼ぶこともあったが、今ではそれは国立アメリカ歴史博物館に所蔵されている。ザ・フランケンシュタイン・ギターは、彼が求めていたサウンドを奏でてくれた。(日本語版編注:アメリカ国立歴史博物館にあるものはレプリカで、本物はニューヨークの近代美術館に所蔵されています)

彼はギターのボディーを黒のスプレーで塗装したが、どうもシャキッとしない。そこで、ガッファーテープを部分的に貼って、違う色を加えた。その派手なツートンカラーは、みんなが真似をした。インタビューで彼は、マーシャルアンプのハッキングについても語っていた。電圧調整によって大音響で鳴らせるようにしたのだ。

キュアンは、彼は常に限界を押し広げようとしていると感想を述べていた。「もっとパワーを、もっと音量を」と。それに対して彼は、「そうさ、なんだって大きい方がいいだろ?」と答えていた。ひとしきり笑ってジョークを飛ばすと、ヴァン・ヘイレンはこう言った。「これはごく自然な進化だったんだ。私はいつも何かをティンカリングしてる。いつも自分に尋ねるのは、『これをやったらどうなる?』だよ」

こうした試行錯誤による実験が加えられたのは楽器だけではなく、ギターの新しい演奏テクニックの開発にも及んだ。彼はフレットを両手の指で叩く。それは動画の中でも披露されている。そのテクニックには、特別に名前は付けていないとのことだ。

バンドとしてのヴァン・ヘイレンは、1978年にデビューアルバムを制作した。1978年には、ビルボード200で19位を記録している。

彼の音楽、彼のサウンドが、アルバムの売上を伸ばし、彼を有名にした。そのサウンドの裏には、メイカーとしての彼が、何か違うもの、何か新しいものを生みだそうと重ねた実験から開発されたツールや技術があり、それは彼と彼のバンドが自分たちをクリエイティブに表現するユニークな方法でもあった。彼らは、単に音楽を作り出せばよかったわけではなく、それを売る方法も考える必要があった。できるだけ多くの人たちに、彼らの自身のことと彼らの音楽を知ってもらおうと必死にがんばった。「要するに、肝心なのは自分たちを信じることと、決してノーという答を出さないことだ」と、並外れたメイカーであり音楽のイノベーターであったヴァン・ヘイレンは言う。そのバンドの膨大な曲は、彼の死後、3000万ダウンロードを数えたとビルボードは伝えている。

原文