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2021.01.08

ものをつくらないものづくり #6 — クリティカル・メイキング教育における「思いやり」

Text by editor

本記事は、久保田晃弘さん(多摩美術大学情報デザイン学科 教授)に寄稿していただきました。

アメリカ、ボストンの南西約70kmに位置する、ロードアイランド州の州都プロビデンス。かつては、繊維産業や工芸で有名であり、アメリカで最初に工業化された都市のひとつであったこの都市に、RISD(リズディ:ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン)という美術大学がある。1877年に創立された、アメリカでもトップクラスの、この伝統ある私立大学の教員らが、2013年に『The Art of Critical Making: Rhode Island School of Design on Creative Practice(クリティカル・メイキングの技法:ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの創造的実践)』というタイトルの本を出版した(僕は、2017年に出版されたこの本の日本語訳の監訳を担当した)[1]

この本における「クリティカル・メイキング(批判的ものづくり)」とは、ものづくりという行為を、素材を選択したり、そこに色や形を与えることだけでなく、その歴史や社会性、政治性を強く意識することである。クリティカル・メイキングの批判の第一の対象は、有用性を重んじる功利主義なものづくりである。この本はそのために必要な美術大学のカリキュラムとその実践例について、RISDの現職教員が報告したり、論じたり、議論したこと(座談会)をまとめたものである。美術大学における教育は、伝統的に先人の技や美学を次の世代に伝える、徒弟的な手習いが主流であった。それに対して、このクリティカル・メイキングにおいては、学生各自がプロジェクトを計画し、リサーチとプロトタイピングを重ねて、そのプロジェクトを進めていくことが求められる。自身の制作のみならず、社会や人間自身に対する多面的でクリティカルな視点を養うには、そうしたプロジェクト型の教育が必要不可欠だ。

クリティカル・メイキングには、このRISDの本におけるものに先立つ源流がある。2008年にトロント大学准教授のMatt Rattoが始めたこの試みは、ものづくりにおける「物質」と「思考」を、実践的かつ理論的に結びつけようとする[2]。クリティカル・メイキングという言葉が、ある種の違和感を持ちながらも新鮮に響くのは、メイキングという、一般的に物質的、身体的、具体的、暗黙的でコミュニティー指向だと思われてる「ものづくり」と、クリティカルという、言語的、概念的、抽象的、明示的で個人主義指向の「言説」という2つの異なる世界が、並置結合されているからである。

Matt Rattoのクリティカル・メイキング・ラボが情報学部に所属しているように、そのベースにあるのは、ArduinoやRaspberryPiのようなオープンソース・ソフトウェア/ハードウェアを用いた、オープンな電子工作やメカトロニクス、情報デバイスのデザインである。歯ブラシを用いたロボットや、フィジカルなオートマタといった、ワークショップの事例は一見、通常のHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)やウェアラブルコンピューティング、ユビキタス・コンピューティングの研究開発テーマに似ているようにみえる。しかしこのラボが目指しているのは、そうした(新規で役に立つ)デバイスそのものを作ることではない。クリティカル・メイキングは、技術的な達成やチャレンジを行うことよりも、それらを取り巻く社会的、文化的、政治的な問題に気づき、それを調査、議論することを目的とする。重要なのは、デバイスを制作するための準備や過程、結果を共有し、それらについて継続的に批判的分析を行うことである。Rattoはそれを、サン・テグジュペリの『星の王子さま』[3]の以下の部分を引用して、私たちが問題に対して「関心(caring about)」をもつことから、「思いやり(caring for)」をもつことに移行することだという[4]

それから王子はきつねのところに戻った。
「さよなら」と王子はいった……。
「さよなら」ときつねがいった。「ぼくの秘密をいうよ。すごくかんたんなことだ。心で見なければ、よく見えないっていうこと。大切なことって、目には見えない」
「大切なことって目には見えない」とちび王子は、そのことばを忘れないようにくりかえした。
「きみがきみの薔薇のためだけに使った時間が、きみの薔薇をあんなにもたいせつなものにするんだよ」
「おれがおれの薔薇のためだけに使った時間……」と忘れないようにちび王子はくりかえした。
「人間たちはこの真実を忘れてしまった」ときつねはいった。「でもきみは忘れてはいけないよ。きみはなつかせた相手に対しては、ずっと責任があるんだ。きみはきみの薔薇に対する責任がある……」
「おれはおれの薔薇に対する責任がある……」とちび王子はくりかえした、そのことばを忘れないように。

ものをつくるということは、生き物の面倒をみるように、そのために時間を使いつづけることであり、つくったものに対する責任があることを忘れてはならない。

Rattoは2014年に、同じトロント大学のオンタリオ教育研究所(OISE)社会正義教育研究科のMegan Bolerと共に、クリティカル・メイキングの思想と実践をまとめた『DIY Citizenship: Critical Making and Social Media』を出版した[5]。この本の中に収められたRatto自身のテキスト「Textual Doppelgangers: Critical Issues in the Study of Technology」には、そのタイトルにもなっている「テキストのドッペルゲンガー」が引用されている。美術史家のDavid Corbettがいうように、ほとんどの美術史家は、絵画でも彫刻でも何でも美術作品を、まずテキストの記述に置き換え、その置き換えにもとづいて分析を進める。しかしテキストは決して実物そのものにはならない。それはまさにドッペルゲンガー(自分自身の姿を自分で見る幻覚)のようなものだ。Rattoはこの実物を置き換えるテキストを、天動説における「地球」にたとえ、テキスト依存主義からの地動説的転向を訴えた。つまり、クリティカル・メイキングの方法は、一般的に概念的・言語的な領域で行われているクリティカル・シンキングを、ものづくり(making)そのもの、すなわち素材や物質の領域と、実践的、そして実用的に結びつけることにある。

ものづくりの一番の問題は、ものをいじったり、つくったりすることが、多くの人たちにとって面白すぎることである。Rattoが行ったものづくりのワークショップでも、課題が面白ければ面白いほど、参加者がつくること自体を楽しんでしまい、それを批判的に分析したり、自分が行ったことをより広く重要な問題に結びつけることが難しくなる。そこでRattoのクリティカル・メイキング・プロジェクトは、以下の3つの段階を意識的に組み合わせて行う[4]

1. 分析:関連する文献を検討し、有用な概念や理論をまとめることで、物質的プロトタイプに(暗黙のうちに)マッピングされている具体的なアイデアをリバース・エンジニアリングする。

2. 拡張:プロジェクトに関連する異分野のメンバーが協働して、技術的なプロトタイプを設計し、制作する。このプロトタイプの目的は、それを機能させる(動かす)ことではなく、プロトタイプの制作に関連する技術分野の知識や技術を拡張し、概念的な探求のための手段を提供することにある。

3. 内省:制作した技術的プロトタイプと格闘し、その構成や代替可能性を探ることで、プロトタイプを用いてそれを表現、批評、拡張する。このプロセスは、メンバーの対話とプロトタイプの再構成による、リフレクションの繰り返しとなる。

技術的な洗練や機能よりも批評や表現に重点を置く、クリティカル・メイキングのプロジェクトは、アンソニー・ダンとフィオナ・レイビーらによる「スペキュラティヴ・デザイン」[6]、さらにはそのルーツであ「クリティカル・デザイン」[7]の歴史や文脈と重なり合う。実際、批評や表現に重点を置くという意味で、クリティカル・メイキングとスペキュラティヴ・デザインは近い関係にある。どちらも、社会的規範に疑問を投げかけ、今日のプロダクト・デザインや広告産業、あるいはGAFAのような、産業デザインやビッグテックに対する批判意識や、現在の延長線上に「ない」未来に対する議論と想像力を引き出そうとしている。しかしスペキュラティヴ・デザインは、その制作物を「プロップ(prop)」、すなわち映画や演劇で物語を説明したり演技の際に用いられる(外見のみの)小道具と呼ぶように、どちらかといえば、テキストや表象を中心に考える。それは、哲学的な問題を日常の文脈に持ち込むことを可能にするが、逆に言葉や説明を重視しすぎることで、それは既存のリサーチ&クリティクスに陥りがちでもある。

それに対してクリティカル・メイキングはあくまで、ものとしてのプロトタイプの「実装」とその制作過程におけるリサーチや思考を重視する。ここでのプロトタイプは、人目を引く刺激的なオブジェクトではなく、メイキングの際の共有行為のための共通言語であり、そのプロセスの名残でもある。さらにプロトタイプには、もの自体が有している物質性や社会性、経済性や政治性(どのような素材から、どのような場所で、どのような人たちが、どのようにしてつくり、それがどのように流通し、どのように販売購入されているか)がある。なぜなら、いかなるテクノロジーも決して中立ではなく、そこには無意識の価値観が埋め込まれているからだ。

事物(もの)には、言語とは異なる方法で概念を結びつける力があり、別の文脈の中を生き生きと旅していくことができる。そうした意味で、言葉だけでなく事物そのものを用いて批評を行うクリティカル・メイキングを、スペキュラティヴ・エンジニアリング、あるいは「工学系人文学(ものによる人文学)」と呼ぶこともできるだろう。実際、今日のものづくりの場では、功利的な経済中心主義により技術的なものと社会的なものの乖離が進み、制作者(メイカー)が自分たちの概念と物質的、技術的な探求を結びつけることが、非常に困難になっている。それはいいかえれば、技術的な対象に対する概念的な理解と、それに対する私たちの物質的な経験との間の断絶が、より深まっていることに他ならない。

その後クリティカル・メイキング(と名付けられた活動)は、さまざまな大学に広がっていった。例えばカナダのエミリー・カー美術大学デザイン+ダイナミックメディア学部准教授のGarnet Hertz(彼は2006年にゴキブリが操作するロボットをつくったことでも有名だ)は、2012年に「Critical Making」と題された10冊の手作りZINEを制作した。クリティカル・メイキングについて考えたり語るだけでなく、ハッキングされたコピー機を使って10冊のZINEを300部ずつ作成し(総計10万ページ!)、実際に手を動かしてZINEをつくるというDIYによって、テクノロジーや社会に対する批判的な考察を補完し、拡張しようとした。その後Hertzは、2014年にエミリー・カー美術大学に「クリティカル・メイキングのためのスタジオ」を立ち上げ、Rattoと同じように、芸術や倫理学のような人文学の批判的な探究モードを、製品コンセプトや情報テクノロジのデザインに、直接適用する方法を探究し始めた。Hertzはクリティカル・デザインのためのカードを制作したり、2020年11月にも、デン・ハーグで行われた「Making Matters Symposium 2020」で「Two Terms: Critical Making + DIY」というタイトルのZINEを発表するなど、精力的にクリティカル・メイキングを推進している。

そして、2008年にRISDの学長に着任したジョン・マエダも、2012年からクリティカル・メイキングという用語を、美術大学へのSTEAM教育の導入と共に用い始め、大学全体のモットーとして推進した。その成果が、冒頭に紹介した「クリティカル・メイキングの技法」という本になる。

教育という観点でクリティカル・メイキングが重要なのは、それがRattoが所属している情報系の学部と、RISDのような、あるいはHertzが所属しているような美術大学を強く結びつける力を持っているからだ。いわゆる文理融合、あるいは横断型の教育は、大学の学科構成やカリキュラムのような理念や言説レベルの掛け声だけでは進まない。むしろ現実的に問題になるのは、人文学的な場にはものづくりのための施設(アトリエや工房)がなく、ものづくりのための施設には、人文学的な思考を生み出すための環境(資料や指導者)が常備されていないというような、フィジカルな要因である。クリティカル・メイキング教育は、こうした今日の教育が有している、物質的な限界と課題を明るみにする。クリティカル・メイキング教育におけるプロトタイプとは、教育を行う場そのものであり、教育の場が持っている物質性や社会性、経済性や政治性こそを、批判的に議論していかなければならない。COVID-19による遠隔教育の広がりは、こうしたモノとしての教育の場が持つ意味や役割——物質的な行為と文化に対する再考を促した。

Rattoは2011年に書かれた[4]の中で、英国RCAとインペリアル・カレッジで行われた、大学教育における遠隔教育技術の議論について言及している。その議論において、遠隔教育の批判者は、そこに対面でのインタラクションのような社会性がなく、教育を単なるコンテンツ配信システムにしてしまっていると主張し、逆に擁護者は、そうした問題はより高速のネットワークや新しいインターフェースのような、新しい技術開発によって解決されると主張した。しかし、遠隔教育の問題は、実際にはそのいずれにも存在していない。今日の対面教育の場で、教員や学生はオンラインのリソースをさまざまな形で活用しているし、遠隔教育の場でもリアルタイムの会話や、物品の購入や郵送が可能になっている。遠隔教育のツールも普及し、この1年で社会全体のオンラインリテラシーは、劇的に向上した。依然として残る大きな問題は、受講生たちが、デジタルやオンラインの場に必要な技術的な専門知識と、社会的、一般教養(リベラル・アーツ)的な知識のバランスを取ることの難しさである。教育システムの新自由主義的効率化によって、ここ何十年か、この2つの知識領域の間の距離はますます広がっている。独占的なビッグテックが提供する技術やツールによる遠隔授業は、SNSによる社会の分断と同じように、その乖離をさらに広げてしまう危険性を有している。

「星の王子さま」の引用で、王子が思いやりの気持ちだけでなく、責任ある仕事をすることで、生活の中にあるものが意味を持つようになることを認識したことを、改めて考えてみたい。Rattoはこの責任のための「思いやり」が、社会とテクノロジーを再び結びつけるために必要な一歩だと主張した。クリティカル・メイキングの一番のポイントは、技術と社会の関係を「事実の問題」から「関心の問題」そして「責任の問題」に変えることにある。そこには、技術的な教育や社会的な学術教育では一般的には行われない「思いやり」に対する配慮、つまり生き生きとした事物やテクノロジーに対して、心を込めて再考する機会が必要不可欠である。

技術系、理工系の研究者と、社会系、人文系の研究者の対話や協働が一向に広がらないのは、人間とその環境との間の「制度化された(enacted)」関係を扱う学問と、より批判的なやりとりや体系的な社会制度的関係に焦点を当てた学問における、制度化されたアカデミズム内の「関心」ごとの違いによる。この違いが、批判的な理論を、個人的なレベルの技術的日常生活に関連付けることを、非常に難しくしている。関心のないところに「思いやり」は生まれない。クリティカル・メイキングの挑戦は、技術的なものと社会的なもの、物質的なものと概念的なものを結びつけるために必要な、もの(object)と私たちの関係を、関心を共有することから生まれる参加者の「思いやり」によって再統合し、両者を共に変革していくことにある。(続く)

参考文献

[1]ロザンヌ・サマーソン・マーラ・L・ヘルマーノ「ロードアイランド・スクール・オブ・デザインに学ぶ クリティカル・メイキングの授業 – アート思考+デザイン思考が導く、批判的ものづくり」ビー・エヌ・エヌ新社 (2017)

[2]Matt Ratto「クリティカル・メイキング」オープンデザイン ―参加と共創から生まれる「つくりかたの未来」オライリージャパン (2013)

[3]サン・テグジュペリ「星の王子さま」管 啓次郎訳,角川書店(2011)

[4]Matt Ratto「Critical Making: Conceptual and Material Studies in Technology and Social Life」The Information Society, 27: 252–260, 2011.

[5]Matt Ratto, Megan Boler「DIY Citizenship: Critical Making and Social Media」The MIT Press, 2014.

[6]アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー「スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること」BNN新社(2015)

[7]マット・マルパス「クリティカル・デザインとはなにか? 問いと物語を構築するためのデザイン理論入門 」BNN新社(2019)