2015.03.13
Raspberry Piの3歳の誕生パーティー
Raspberry Piが、イギリス、ケンブリッジ大学William Gatesコンピューター科学研究所において3歳のお祝いを行ったことは、注目すべき話題だ。2日間にわたるRaspberry Piの3歳の誕生祝賀会には、およそ1,400人が訪れた。その多くは家族連れで、子どもたちといっしょにワークショップや講演会やデモや業者による店舗を見てまわっていた。もちろん、お誕生会なので、風船もあった。マイラー樹脂のRaspberry Piの文字型の風船まであった。そして、ピザに、Irration Aleという名前のラズベリー風味のビールも出た。
研究所のガラスケースの中にあった初代Raspberry Pi
「そこでしくじることはできなかった」
Raspberry Piの創設者、Eben Uptonの朝の基調講演は、ロンドンから列車で移動中だったため聞き逃してしまったのだが、その後、Ebenと奥さんのLizに会って少しだけ話を聞くことができた。話の途中、ひとりの少女と両親が、参加者に配っていたRaspberry Pi用ケースにEbenのサインを求めてきた。
私はEbenに、Raspberry Piの3周年をどう思うか聞いてみた。「大きいのは、10〜15人の人間が私のために懸命に力を貸してくれたことです。自分がいかに非力で、いかにリソースを持っていないかを感じさせられました。私たちは最善を尽くす必要がありました。エンジニアたちは、心臓部であるコアのプラットフォームの開発に力を集中させなければなりませんでした。そこでしくじることはできませんでした」と彼は答えた。彼は、自分で選んだチームは最高のチームであると信じている。通常の10倍の能力を持つエンジニアの集まりだ。どんなところを見れば、そうした優秀な人材を見抜けるのかを聞いてみた。「彼らは子どものようにコンピューターをハックしていました。夜にハックしているんです。それが彼らの仕事です。最高の人材が雇えるチャンスは人生で一度きりです」と彼は言う。彼は自分がよく知る20〜30人の最高のエンジニアをよく吟味して、そこから10人を選んだ。
Eben Upton自身も10歳のころはそんな子どもで、コンピューターにのめり込み、ハッキングを始めた。やがて彼はケンブリッジ大学の工学科へ進んだのだが、3年生のときに、起業のために大学を中退した。「コーディングの方法は知っていたけど、しばらくして、論理的なことを学びたいと思うようになったんです」と彼は話す。そこでまたケンブリッジに戻り、大学を卒業し、続けて博士号も取得した。今また彼はケンブリッジ大学コンピューター科学研究所にRaspberry Piチームと、世界のRaspberry Piエコシステムを支える地元の支援者と共に戻ってきた。
私は、Raspberry Piが与えたインパクトについてEbenに聞いてみた。「子どもたちを見てください」と彼は答えた。2011年、ニューヨークのMaker Faireに最初に出展したとき、子どもたちに認識してもらえたという。「大勢の子どもたちが列を作って私たちと話したがっていました」と彼は話す。とくに印象深かったのは、近くにいた若きMakerだ。私も、Andrew Katzという名前を覚えている。彼はArduinoでコントロールされたドールハウスを展示していた。「子どもたちがやっていることを見て、ビックリしました」とUptonは振り返る。
彼は、イギリスやアメリカといった先進国が、十分な数のエンジニアを育てていないことを心配している。逆に、中国やインドが私たちに代わって生産を行っている。「私たちは、自国の才能を育てるために、一層努力することが必要です」と彼は警告する。この言葉は、より多くの人を取り込むべきと言っている。「もっとたくさんの女の子にコーディングを勉強してほしいと誰もが思っていますが、じつは男の子の場合もたった5パーセントだけです。端数を切り捨てたらゼロです」と彼は言う。もっと多くの人がコーディングを勉強すべきだと彼は考えている。「考えるだけでは貢献になりません。考えを実行して初めて貢献になります」と彼は言う。つまり、自分の考えを誰か他の人に実行してもらうのではなく、自分の考えは自分で実行しなければだめだというのだ。
「早すぎるということはない」
教師のSway Humphriesは、「The Pi in Primary」(小学校でのPi)というタイトルで講演を行った。彼女は、4人の生徒を紹介した。みな10歳前後だ。HumphriesはRaspberry Piを勉強して、学校の授業に使えそうだと考えた。そして、クラスのためにRaspberry Piを買って欲しいと学校に頼んだところ、却下されてしまった。「Raspberry Piはまだ新しく認証されていないから」という理由だ。仕方なく、彼女は自分のRaspberry Piを持ち込み、子どもたちと使い始めた。それが他の子どもたちにも伝わり、子どもたちから「チェリーパイってなに?」などと聞かれるようになったという。「コードの時間」というチャレンジを行ううちに、ついに学校でRaspberry Piを1ケースを買ってもらえることとなり、本格的に物事がスタートした。「子どもたちにそれを配り、『さあ、何ができるか試してごらんなさい』と言ってやりました」と彼女は振り返る。彼らは自分のコンピューターを組み立て、それが完成して走ったというだけでも、クラスの大きな自信につながった。
彼女が「デジタルリーダー」と呼ぶ彼女の生徒たちは、本当に素晴らしい。ある少年はこんな話をしていた。最初、生徒たちがRaspberry Piの話をしているのを聞いたとき、ブラウニーかカップケーキの話かと思っていた。しかしすぐそうではないとわかった。「初めてRaspberry Piを見たとき、コンピューターだとは思えませんでした」と彼は言う。ほかの生徒からRaspberry Piを使った活動の説明を受けると、「最高に面白くてすげーと思った」そうだ。
子どもたちにコンピューターをどう思うかを聞くのは興味深い。学校では、生徒たちはワードやパワーポイントを教わっている。つまりコンピューターの使い方だ(しかし子どもたちは、会場となったこの建物の名前がビル・ゲイツにちなんだものだとは知らないようだ)。「プログラムのことがわかれば、もう学ぶことはあまりないんです」と一人の生徒が話していた。また別の生徒は「Raspberry Piは楽しくて難しい」と話している。Raspberry Piをいじるまで、コンピューターを理解できていた子どもは一人もいなかった。ある子どもは、コーディングの方法は知らなかったが、学んでみると、数学や音楽やゲームなどいろんなことに使えることがわかったという。そして、賞を受賞した10歳の少年の言葉で締めくくられる。「コーディングは早すぎるという考えは、間違ってます」
ペンギンとクロサイを撮影する
Cambridge ConsultantsのJonathan Pallantの話も面白かった。彼は、南極のペンギンとアフリカのクロサイを調査するための、遠隔リアルタイム撮影ステーションの開発に関する話を聞かせてくれた。クライアントから必要な条件のリストを提示されたとき、それをどう実現させるか考えなければならなかった。マイナス40度にもなる環境で夜も昼もカラー写真を撮影しなければならない。現地に数カ月間設置しっぱなしになり、バッテリーで駆動させなければならない。軌道上のイリジウム衛星を使ってリアルタイムで写真を電送する可能性についても話し合った。それまでペンギンの調査では、南極にカメラを置き、運が良ければ数カ月間撮影を続け、後に回収して写真を取り出すということをしなければならなかった。だが今は、Raspberry Piがその難題を解決してくれた。頑丈なケースに収められたRaspberry Piのおかげで、研究者たちはイギリスにいながら、その日のうちに南極で撮影された写真が見られるようになったのだ。Pallantによると、Raspberry Piの性能が高く、しかも価格が安いため、カスタムボードの開発も可能になったのだという。
深夜も出荷
Raspberry Piを販売する店舗の開き方と、Raspberry Pi用アクセサリーの開発に関する業者のパネル討論があった。Jamie Mannは、プリロードされたSDカードをeBayで販売していたが、その後、The Pi Hutを開設した。現在は20万人の顧客を抱え、Raspberry Pi 2を1万5000ユニット販売したという。The Pi Hutはたった2人で運営されている。その日のうちに裁ききれないほどの注文が入ったら、一晩中かけても出荷するとMannは話していた。
その他にも、Pimoroniなどの人気業者がさまざまな“ハット”を販売している。ハットとは、Arduinoのシールドに相当するボードのことだ。Skywriterは容量タッチセンサーを、Propeller HatはParallax Propellerチップ用のインターフェイスを作っている。Unicorn Hatは、カラフルな触れる展示を行っていた。
秀逸だったデモ
賞を贈りたいと思ったほど驚いたデモは、Martin Manderの“1981 Portable VCR Raspberry Pi Media Centre”だ。そのVCRカセットを見て、私は固まった。洒落も効いている。Manderの名刺にはこう書いてある。「レトロ・テクノロジーのアップサイクル」
トーキング・スローン(話す王座)も面白かった。双方向の展示で、大人も子どもも楽しんでいたようだ。まず、自分でタイトルを選ぶ。3つの言葉を組み合わせてボードに貼り付けるのだ。実際にあったのはThe Invincible / Spider of / The Island(島の見えない蜘蛛)、The Bloodthirsty / Monster of / The Shire(田舎の血に飢えた怪物)、The Cheeky / Shadow of / The Universe(宇宙の生意気な影)といった具合だ。そして王座に座り、角の付いた背の高い冠をかぶる。するとトランペットが鳴り、畏まった声でタイトルが読み上げられる。
私はトーキング・スローンの開発者であるELK. CookeのHenry Cookeに話を聞いた。彼はソフトウェアとビデオゲームデザインの経歴を持つ。彼は、マウスとキーボードを使ったインタラクションをデザインしていたのだが、物理的なインタラクションはずっと難しいそうだ。「インタラクションのロジックを見つけなければならないんです」と彼は言う。そして、「もしそれが魔法だったらどうするか」を考えるのだそうだ。彼の得意技は、「それがデジタルであると」ユーザーに気づかせないことだ。誰にも教わることなくその使い方がわかると、多くの人は嬉しい気分になれる。座った人がどんな言葉を掲げているかを判別するためにNFCを使っているなどということは、誰も知る必要はない。ただ、知りたいという人に説明するために、Cookeがそばに立っている。
Thomas Prestonは、Raspberry Piで制御された40台のカメラで同時撮影を行うアプリを開発した。彼は、お客さんにジャンプするように言い、カメラのシャッターを切る。すると、飛び上がったまま静止したように見えるビデオが作られる。映像はその周囲を一回転する。Thomasによると、これは映画『マトリックス』の有名なシーンをシミュレートするものだそうだ。彼はこれをBullet Time(弾丸時間)と命名したかったのだが、結果的にFrozen Piとなった。
EDSACかRaspberry Piへ
コンピューター科学研究所のロビーには、この研究所の歴史的功績を示す展示品が置かれている。ガラスケースに収められているのは、金属のシャーシに真空管を並べた1958年製EDSAC IIだ。「世界初のフルスケール・マイクロプログラムド・マシン」と呼ばれている。その同じケースの中に初代Raspberry Piも置かれている。こちらはまだほんの3歳だが、すでに『バック・トゥー・ザ・フューチャー』方式でコンピューターの歴史を作り始めている。
Thomas Prestonの40台のカメラを使ったプロジェクト Frozen Pi
自分のRaspberry PiのケースにEben Uptonのサインを求める少女
Raspberry Piで動く1981年のポータブルVCRメディアセンター
[原文]