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2018.02.20

Sara Hendrenが考えるエンジニアリングとアートの架け橋「最高の状態のとき、エンジニアリングはアートと同じことをしている」

Text by Liam Grace-Flood
Translated by kanai

Sara Hendrenの作品は、エンジニアリング、デザイン、体、心に関して「普通」だと私たちが思い込んでいることに疑問を投げかけている。

彼女は現在、アーティストであり、デザイナーであり、オリン工科大学 の招へい研究者として、エンジニアリング学科の学生や教員にアートと人文学を教える活動の責任者を務めている。彼女はまた、適応技術(アダプティブテクノロジー)ワークグループを主催し、Ablersite.orgでその関連記事を執筆している。彼女の作品は世界中で展示され(ホワイトハウスでも展示されたことがある)、ニューヨーク近代美術館クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館には常設展示もされている。今は、Riverhead Books社から出版予定の最初の本を書いているところだ。

私たちはSkypeを使って彼女に話を聞いた。作品のこと、モチベーションのこと、大好きなプロジェクト、障害者のためのものを含めて、デザインをするときに大切に思っていること、忙し過ぎるとよい作品が生まれないことなどだ。会話には、読みやすいように少々編集を加えている。

非常に多くの素晴らしい功績をお持ちなので、どこから聞きましょうか。今、いちばん面白いと思っているプロジェクトは?

まずは、Engineering at Home(家庭のエンジニアリング)の話をさせてください。いい意味で先が読めなくて、自分の役割もハッキリしない、とっても面白いプロジェクトなんです。Cindyという四肢を切断した女性が、実際に使って、作って、組み立てたツールのものすごいアーカイブがあります。彼女は60歳のときに心臓発作を起こして、幸運にも命を取り留めたんだけど、昏睡状態だったことから合併症を起こして、両方の下肢と10本の指を切断することになった。晩年になってから粗大運動技術と微細運動技術を失ったのだから、大変なことよ。

私はオリン・カレッジで、Caitrin Lynchという人類学者の同僚と一緒にCindyに会いました。Cindyは、私が学生のために主催した障害者用技術に関する非公式なワークショップに来てくれて、大きな鞄に詰め込んだ美しいツールを見せてくれたの。私はCaitrinを見てこう言いった。「これを役に立てなくちゃ。これをもっと知ってもらうのよ。ウェブサイトとかね。調べてみましょう」と。そして、才気あふれるウェブデザイナーで建築家のCasey Gollanと、優秀な写真家、Michael Maloneyをまきこんで、ロボティクスが普通に使える世の中での最新の発明品であるCindyのツールに注目を集める、同じテイストのデザインを考えることにしたのよ。

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Engineering at Homeの議論の核心は、手足を失ったCindyが考える、お金で買える最高のものだった。8万ドルの人工の腕と手よ。複雑な保険の手続きを行って、訓練を重ねて、それに大きな期待を寄せていた。でもそれは、次世代のツールとして大変な注目を集めたにも関わらず、彼女にはまったく使えないものだとわかった。これが便利だと思う人もいるかもしれないけど、少なくともCindyはそう感じなかった。そこで、自分の生活に密着したこれらのツールを、自分で作ることにしたの。

このプロジェクトを一般社会に公開するときの私たちの役割を考えると、なんだか面白い。私たちはデザインをしない。キュレーターのような存在ね。私たちは視点を定めて、私たちが作ったものではない、すでに存在するデザインの扱い方や見せ方を考える仕事よ。

そうして2年前に公開したんだけど、その反響の大きさに驚いたわ。人類学会議で賞をもらって、展覧会にも招かれるようになった。今年の春にはヴィクトリア&アルバート博物館の展示会にも出展します。この展示会は、The Future Starts Here(未来はここから始まる)というタイトルで、ハイテクで先進的な「未来」の展示会に出展されるようなデザインやエンジニアリング機器が並ぶんだけど、その中にCindyのツールが目立つように展示される。こうしたローテクでシンプルなツールの力も、また未来を作るというストーリーでね。だから、このプロジェクトをとても楽しんでるの。たぶん、それは自分で作ったものではないからかも知れない。何か別のものにスポットライトを当てて、自分が思いを込めた技術への視点を定めるという作業なのよ。

ヴィクトリア&アルバート博物館の展示会はおめでとうございます!

ありがとう。

Engineering at Homeは「Make:」にとって最適な話題だと思うんです。私たちはDIY精神でエンジニアリングを見直して、いわゆるエンジニアリングを正規に学んでいない、エンジニアリングには縁遠かったような人たちを取り上げています。

あなたの仕事は、エンジニアリングとはどんなものかと疑問を呈して、エンジニアリングに疑問の余地や不確かなものを与えていると思うんです。私の経験では、エンジニアリングとは疑問に答えることであり、問題を解決することです。そしてアートとは、疑問を持ったり考えたりする場所だと思います。そこで、このエンジニアリングの世界で、あなたのアートやデザインの経歴がどのように役立っているのか、またエンジニアリングを定義するとき、定義し直すときに、それがどんな意味を持つのかを聞かせてください。

あら、そのとおりよ。私の仕事を言い表すとしたら、その中核にあるのは、そうした疑問よ。私はマクシーン・グリーンの作品をたくさん読んでいるの。彼女は美的教育を専門とする哲学者で、教育についていろいろ考察しているのよ。彼女は、「ソーシャル・イマジネーション」の働きについて語っているんだけど、それはとくに教室で、アートに関連して起きると言ってるの。人が集まって、人が作った物や物語について考えるとき、集団的な想像力が働く。私はよく彼女の言葉を借りて人に言うんだけど、アートとデザインは、今とは違う世界があるかも知れないことを主張し続けることだって。物には別の形があったかも知れない。

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「違う世界だったかも知れない可能性はどこにでもある」

私は、デザインの歴史の中で、エンジニアや政府による問題解決が行われてきたように見えることがあると思ってるの。でも、そうしたデザイン上の決定は、ソーシャル・イマジネーションでもあることを忘れてはいけないと訴えているのよ。政府やエンジニアからトップダウンで官僚的に行われていたかも知れないけど、ソーシャル・イマジネーションの痕跡はあるわ。自分が決めたことではないかも知れない。でもそれは、今とは違う世界を社会的に想像し直す場所があることを意味しているの。

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エンジニアはそれに長けてる。世界の仕組みを理解すれば、つまりそれが人間の決断の産物だとわかれば、周囲に積み上げられてきた環境のすべてが、今の形を保たなければならない理由はないとわかるはず。今とは違う世界だったかも知れない可能性は、どこにでもあるのよ。

学生だったころ、私はこう考えたの。アートはそうした疑問に関わる分野だって。もし何々だったらというね。それはもうひとつの未来への疑問。予想された物語の反対版。でも、エンジニアたちと仕事をするようになって、彼らも同じように理解しているのだと知って、すごく勇気づけられた。彼らは、物理や数学や世界の構造や、すべての1と0を理解すると、世界は今の姿である必要はないという、深いところでの意識を得るの。エンジニアたちとご飯を食べに行くと面白いわ。彼らは窓の鍵や、塩の瓶のネジ山や、椅子の継ぎ手なんかを見てこう言う。「このデザインはまずいね。なぜこうしないんだろう?」ってね。彼らは、物は作り直せる、やり直せると思ってるの。

だから、エンジニアリングは私にとって、本当に生産的な力になった。エンジニアは、問題を解決するときにハンマーを握って釘を探すというイメージが定着しているけど、実際、最高の状態のときは、エンジニアリングはアートと同じことをしているのよ。それらの中心に、デザインが大きな傘を広げて、「私たちの周囲に固定されている世界は、建物も社会も政治も、違う形はあり得ないのだろうか? あるとも」と言ってる。だから、私たちが作ってきたものに、他の姿だったかもしれないということを気づかせるのよ。それは、私たちが何を求めるべきかという提案であり、単に「もし◯◯だったら?」と考えることでもあるの。

この10年間、私は私の一連の作品を、ギャラリーの展示に適した「アート」と呼ばれるものと、世界に出て行って工業界に影響を与える「エンジニアリング」との間を縫うようなものと主張してきた。私は、大量生産されるような製品を発明できる人間じゃないけど、工業界と文化の両方に影響を与えたいと考えてるの。

「大量生産」と言いましたが、あなたの Accessible Icon Project(車椅子マーク・プロジェクト)は、「他の姿だったかも知れない」という小さなアイデアからビッグになりましたよね。最近では、私の大学のトイレでも、あのマークを見るようになりました。

そうなの。あれは私の想像を遙かに超えて大きくなったのよ。でも、あのつながりを作ったのは私じゃない。ご存知かも知れないけど、あのプロジェクトは、ストリートアートとして始まったんだけど、2つのことが起きて、本格的に始まったのよ。

1つは、私の協力者であるBrian Glennyと私に、グラフィックデザイナーをやってる大学時代からの古い友人がこう持ちかけてきたの。「このマークをもっと公式な感じに仕上げようか」って。それから、「ストリートアート・プロジェクトをやってるとはすごい。もっと公式なマークが欲しい」といろいろな人から言われるようになって、Tim Ferguson Sauderが私のオリジナルのマークをアイソタイプの規格に従った公式な感じに作り直してくれたの。そしてこれを誰でも自由に使えるように、パブリックドメインにした。だから、お金は一銭ももらってないのよ。

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現在のバージョン。99% invisibleで詳しい内容が見られる

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初期のころのマーク。プロジェクトのウェブサイトより

そして、もう1つの化学反応が、非営利団体、Triangle, Incが、イベントをやらないかと持ちかけてきたときに起きたの。駐車場のマークを塗り替えることになってるんだけど、そっちには新しいマークがあるし、こっちにはボランティアデーがあるし、やってみないか? って。それで私はオーケーした。こうした、継続的で社会的な作業は、作品そのものよりもずっと面白いわ。

それは何にでも当てはまる。私はグラフィックデザインの素人だけど、この最初のマークは定規と鉛筆で描いて、ステッカー屋さんに整えてもらって作ったものなの。いつも人に聞かれる。オリン工科大では使わないのかとか、あのマークが欲しいとか、他の場所にはないのかとか。でも、誰があのマークを使うか、誰が使わないかというのは、私にとって大きな問題じゃない。私の興味は、もっとマクシーン・グリーン的なところにあるのよ。もっと大きな目覚めよ。「障害者の環境に対する考え方が変わった。それについて話せるようになった。もう無関心ではいられない」と人々の意識が変わることよ。あのマークは、私をそこへ連れて行ってくれたクサビの先端なの。でも、それを考案した本人であることより、もっとずっと興味があるのは、デザインに何ができるかっていうこと。そこで、拡大へのつながりが急に欲しくなった。そのとき、作者であることを止めたの。あれはオープンソースでパブリックドメイン。大学の教員としての自由を得たの。あれを商品にはしない。あれは拡大するアイデアとして開放される。原型を超えるのよ。

Accessible Icon Projectは、9月にクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館で展示されることになっていて、常設展示品としても採用されることになったの。それも、すごく楽しみ。キュレーターと「このプロジェクトはなんなのか?」という会話をやりとりするうちに、デジタルコレクションにしようということになって、イベントの写真も集め出した。彼らがあの作品を通して、人と人の出会い、イベント、リアルタイムの関係を星座のようにつなぎ合わせて拡大してくれることを私は期待してる。それがとても面白いと思っているところよ。そしてそのデジタルの部分が肝心なの。オープンソースで、いろいろな形で利用できる。イヴァン・イリイチの言葉を借りればconvivial tool(お祭りのようなツール)ね。自由で、柔軟で、強制されない。

たくさんのプロジェクトを同時に抱えていらっしゃいますね。うまくまとめられるかしら。Riverhead Booksで本を書いている。新米国研究機構と全米人文科学基金のPublic Scholarプログラムのフェローであり、メロン財団が資金を提供するプロジェクトの主任調査員を務めている。これらをざっと紹介してもらえますか? また、あなたの学生たちは、あなたが忙しくしないように心がけていると話しています。これだけの仕事を抱えて、忙しくしないでいられる方法とは?

よくぞ聞いてくれました。新米国研究機構と全米人文科学基金とは、この本のリサーチや執筆のために提携して資金援助を受けてるの。みんな1つのプロジェクトでつながってるのよ。本当に感謝してる。

メロン財団では、私の研究テーマは身体障害だけど、もう1つ、アートと人文学の深い深い知恵と歴史とツールをエンジニアリングに持ち込むための方法論に、大きな情熱を持ってるのよ。今は、デザイン思考が高等教育にちょっと恋をしている時代だと思うの。デザイン思考には大切な洞察がいくつもあるけど、それがその世界に入って行って、歴史と人類学と芸術が豊富に持っている中で、エンジニアの力になって、彼らの仕事を文化として捕らえ、そこに含まれる前後の流れや政治などすべてを考えるのに役立つツールは何かを探し出して提示する方法について、神経を尖らせてるの。

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「デザイン思考には大切な洞察がいくつもあるけど、それがその世界に入って行って、歴史と人類学と芸術が豊富に持っている中で役立つツールは何かを探し出して提示する方法について、神経を尖らせてる」

メロン財団がオリン工科大を訪れたとき、彼らはこう言ったの。「通常、私たちはエンジニアリングを援助しませんが、あなたの話を聞けるスタッフがいるはずです」ってね。そこで私たちは、オリンの学生たちのアートの体験をもっと活発にする提案をいくつも考えた。クリエイティブな人たちを大学に招へいしたり、夏にはアート関連の団体にエンジニアリング学科の学生をインターンとして派遣したり、人文学の教員のためのサマーインスティテュートを作ったりしてるの。これらはすべて、この大学にはアートと人文学の教員がすでに揃ってますよ、という大きなシグナルになる。視野を公的に広げる、もう1つの方法よ。私たちはアートを、単なる補完的な、エンジニアの教養を高めるための訓練としてではなく、極めて重要なものとして真剣に捕らえていることを知らせるためのね。

私は、本の執筆とメロン財団の仕事の間にオリン工科大を訪れて、これらの仕事をしている間は教員を続けることは難しいと告げたの。そして、大学側と話し合って、招へいアーティスト、研究者、デザイナーとして、柔軟な形で仕事ができるようにしてもらった。将来は教えることもあるかも知れないけど、今は教壇から退いて、大学に属しながらメロン財団の仕事をやって、自分の仕事に余裕を持たせることにしたのよ。

それから、あなたの言うとおり、私は忙しくしないように心がけてる。私にとって、いい仕事ができるときって、歩き回ったり考えたり、終わりのない調査ができるときなの。だから、そうした行動のための時間を確保しておくのよ。奥深いインプット、会話、それに ダニエル・カーネマン が書いているような、ゆっくりとした思考がなければ、私は何もできなくなる。視点を失ってしまう。だから、たくさん迷うための余裕を作っておくの。私は、ビジネスや生産性には直接的な興味を持ってない。そのモデルを、学生たちのために作ろうとしているの。私には子どもがいるし、地元の公立学校のコミュニティ活動にもしっかり参加してる。いつだって貪欲に本を読むし、自分とはまったく違う人たちと話をする。そのための時間を作ることが、とても重要なのよ。

私は、みんなが固く信じてるアメリカ的な文化感覚を拒絶しているの。どこでも重要な人物でいなければいけないとか、どこでも必要とされていなければいけないとか、常に大きな役割を果たして、代替の利かない人間でなければいけないといったことよ。それはワナよ。「もっともっと」は間違ってる。何をするか、職務経歴書に何を書くかが目的ではないという模範を学生に示したいのよ。子どもが小さかったころは、家で過ごす時間が多くて、社会的にはほとんど注目されない雑事に追われてた。そういう時期もあるものよ。だから、そんな学生たちの模範になりたいの。

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「私は、みんなが固く信じてるアメリカ的な文化感覚を拒絶しているの。どこでも重要な人物でいなければいけないとか、どこでも必要とされていなければいけないとか、常に大きな役割を果たして、代替の利かない人間でなければいけないといったことよ。それはワナよ」

今書かれている本について、もう少し教えてください。

一口に言えば、デザインの中核に身体障害を置くという、意外な分野の話よ。私はこの何年間も、障害とデザインをつなぐさまざまな模範的なサイトについて語ってきたけど、それをこの本ではもっと掘り下げたいと思ってる。障害に関連するデザインを、いろいろなスケールで捕らえたいのよ。ウェアラブルや人工装具から、家具、部屋、建物、都市計画、さらにはシステムレベルまでね。この本で、デザインはあらゆる場所に存在するっていうことを訴えたいから。

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そして私は、障害は多次元的体験だと言いたいの。障害者は、人工的な環境での不便やミスマッチに悩まされるけど、それは深い深い創造性と発明をもたらすものでもある。障害を持つという体験は、大変に人間的なものだとわかってもらいたい。それは、人間同士の依存関係もまた人間的で普遍的なものであることを暗示してるのよ。1つには、「自律神話」と哲学者たちが呼んでいたものね。西洋の自由主義には、他人との間に壁を作り、独立している状態が本来の人間の姿だという観念があるけど、それが間違いであることを歴史が証明してる。

障害は、人に深い部分を見る目を与える。言い換えれば、障害を持って暮らしている人たちは、独立した生活を夢見ているわけじゃない。それでもそこには深い教えがあるの。彼らは明確に他人の支援と結びついて生きている。技術の支援、物や人工物やシステムや、そしてもちろん人に依存してるのよ。

だからこの本は、まずデザインそのものの話から入るの。私は、インドのローテクな人工装具や、ニューヨークのダンボールの家具や、認知症の人のための建造物のようなものに注目してる。繰り返し作られているデザインに注目して、そこで何が起きているのか、誰がそこに関わっているのか、デザインされた人工物の証拠の中に何が見えるのかに注目してる。でもこの本は、障害は人間の基本的な要素であることを広く深く考えるものよ。私たちはみな、人間の必要性、才能、依存性という連続体の中で生きている。そこを違う角度から見てソーシャル・イマジネーションを働かせることで、よりよい未来が作れるのよ。

とても魅力的な話です。障害について調べると、その他の多くの分野で深い見識が得られることは、私も体験しています。個人的な興味から、いろいろな本を読みましたが、読めば読むほど疑問が湧いて、満足できなかったのです。言葉の使い方すらわからなくなりました。障害という言葉自体を使わない運動を進めている人たちもいます。ここで、うんと基本的な質問をしたいところですが、今はあなたの情報源について伺うのが一番だと思います。あなたの本の他に、障害者をよく知るための、また一緒に仕事をするときのための基礎知識が養えるものとして、お勧めの情報源を教えてください。

確かに、呼称に関して疑問を持つ人は大勢いるけど、私が知っている人たちのほとんどは、発達系の障害を持つ人のことを話すときには、人を第一に考えた言葉を選んでる。「自閉症を患う人」のような。あまり一般的じゃないけど。私が知る活動家の多くは障害者と呼んでいる。「異なる心身能力を持つ人」という呼称は使わない。それには重要な訳があるのよ。

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「私は障害者だ。それは脚が動かないからではなく、世の中が階段だらけだからだ」

呼称を間違えたところで、世界がどうなることもない。いまだにみんなが障害者と呼んでいるのには、訳があるのよ。それは、体が壊れているからではなくて、特定の行政分野に属しているからなの。医療分野ではなくてね。彼らの権利を主張するために必要なことなのよ。障害者の立場を取るということは、既存の建造物や、教育方法や、交通機関の運用方法との意見が食い違うとを認識すること。だから私の知り合いはこう言ってる。「私は障害者だ。それは脚が動かないからではなく、世の中が階段だらけだからだ」

そうした変化が起きるまでは、心身ともに健常な、障害を持たない人たちの間では「異なる心身能力を持つ人」という神話があった。「言い換えるべきだ。厳密に言えば、我々はみんな障害者なんだから」と彼らは思ったの。確かに、哲学的にはそうかもしれないけど、現実の現状に即した言葉ではない。今でも、劣悪な住環境のことを問題視している。WHOの障害者と経済に関する統計データを見ると、惨憺たるものよ。だから、私の知人たちは、障害者は彼らの選んだカテゴリーなんだって言ってる。

情報源についてだけど、言葉では複雑になる。私は学生に教えていることを、みんなにも話してるの。一番大切なのは意志だって。Googleで基本的な知識は得られるけど、実際に障害者と知り合いになれば何でも聞ける。どんな呼ばれ方をしたいかとか。とても簡単なことよ。私の仕事で私が心がけていることは、人を快適にすることよ。

情報源としては、Vox mediaが、もっと使いやすいウェブサイトの作り方について、とてもいい解説をしている。オーストラリア人活動家で自身も障害者のStella Youngもお勧め。彼女は、TED Talkで、障害は「発想ポルノ」だと話してるの。これは障害者に対する同情的な言葉のまやかしから脱する、素晴らしい考え方よ。

それから、Graham Pullinの著書「Design meets Disability」は、初心者にお勧めの、かなり挑発される内容よ。Georgina Kleegeは自身の体験から素晴らしい文章を残してる。New York Times(Op Edのコーナー)で連載している障害シリーズも初心者にお勧め。自分の体験を第一人称で書いているの。短い文章だけど、どれにもわかりやすい見識が含まれてる。でも、とても雰囲気のある文章よ。最初に読むなら、これが一番かしらね。最近の傾向で仕方がないけど、18カ月ぐらいで終わっちゃった。もう連載してないけど、また始めて欲しいわ。

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すごく読みたいです。では最後になりますが、あなたが望む将来のメイキングや生活はどんなものですか?

将来のメイキングは、自分をMakerだと思っていなかった人たちや、体や精神が標準的でない人たちも含む、大きくてどんどん広がる傘になって欲しいと思ってる。よくできたものを使うだけでなく、世界を一緒に作っていく人になって欲しい。未来について、みんなが深く真剣に考えるようになる。そんな世界に住みたいわね。

スマートな創意工夫だけではなくて、もっと曖昧で、隠喩的で、象徴的な芸術の表現方法をメイキングの中心に置きたいと思ってるの。つまり、機械を美しいケースで包み込むというだけでなく、世界に組み込む部品も美しくあって欲しい。

それから、将来のメイキングは、私たちの中から生まれる出会い、交流、状態に重点が置かれるようになるといいわね。ソフトウェアやハードウェアの比重はもっと低くなるといい。

全員で未来を作る世界ですね。今日はお時間と貴重なお話をありがとうございました。


興味のある方は、Saraのウェブサイトをどうぞ。彼女が「Wired」誌の「All Technology is Assistive」に書いた記事と、Rhizomeのインタビューもどうぞ。なかでもお勧めは、Ablerの人工装具とサイボーグに関する話です。

原文