Crafts

2013.09.06

キューバのMaker事情:DIYはサバイバルだ

Text by kanai

Makeのカメラマン見習い、Gunther Kirschがこのビデオを教えてくれた。「平和時の非常時」におけるキューバ人の立ち直る力と創作力を伝える素晴らしいミニドキュメンタリーだ。

平和時の非常時とは、1989年にソビエトが崩壊した後のキューバの孤立と深刻な経済危機を婉曲に言い表したフィデル・カストロの言葉だ。1960年代以降、キューバ人は窮乏生活を強いられてきた。その結果として、週末の趣味としてではなく、生き残るためのDIY文化が育っていった。必要は発明の母。飢えも同じだ。

このドキュメンタリーでは、キューバ人デザイナーでアーティストのErnesto Orozaに焦点を当てている。キューバには工業デザイナーの仕事がないため(工業デザインを必要とする産業がほとんどないのだ)、彼は友人といっしょにキューバ中を周り、キューバ式のユニークなテクノロジーを集めて記録するという仕事を始めた。たとえば、キューバ中でよく見るハックのひとつに、アルミのランチトレーを使ったテレビアンテナがある。まさに、文字通り、そのまんまのものだ。

この財政危機(そして政治危機)を乗り越えるために、キューバ軍は、壊れた物を再利用したり修理するための DIY ガイドブックを出版した。内容は、家電製品の修理方法から夕食の調理法まで、あらゆる分野にわたる。そのなかで有名なレシピは、グレープフルーツの皮を使った「ステーキ」だ。ニンニク、タマネギ、レモン汁に皮を漬け込み苦みを抜いて、フライパンで焼く。ディナーの出来上がりだ。

「危機がさらに深刻化すると、人々の創造性はより力強くなり、その場で必要となった問題解決法があらゆる場所に溢れるようになった」とOrozaは話す。

Orozaは、こうしたイノベーションやハックを「技術的不服従」と呼んでいる。物の「権威」や、それまでの慣習にとらわれないことだ。たとえば、ポンプのモーターをバイクのモーターにするとか、食事のトレーをアンテナにするといった具合だ。私たちが呼ぶところのハックだ。

おそらく、この不服従によってもたらされる小さな自由や安心感が、自由や安心感を十分に与えてくれない政治体制の中で生き抜くキューバ人の支えになっていたのだろう。厳しい状況下でのMaker魂の証でもある。

こうしたキューバの現状を見た私には、作ることに関して興味深い疑問が湧いてきた。本当に必要が発明の母ならば、偉大な発明には偉大な必要が不可欠なのか? 材料が十分にある状況は、Maker 魂にどんな影響を与えるだろうか? 趣味の物作りと生き残りのための物作りの違いは何か? 満たされた国に住む我々は、キューバの技術的不服従から学ぶことはあるか? みんなの意見を聞かせてほしい。ただし、カストロに関する議論はしません。

訳者から:ムービーの中で話されている内容の概要です。長いけど、とても興味深い話なので。

これは最近見つけたんだ。コンセントに差し込むようになってる。これを使えば充電式でない電池を再生できる。おもに補聴器の利用者のために、何度でも電池が使えるようにと作られたものだ。

こうしたものを見て「技術的不服従」を書こうと思ったんだ。それは技術を解釈し直すもので、エレクトロニクスやエンジニアリングの知識が詰まっているのだけど、新しい物を生み出すとき、人はかならずそれを超えていくんだ。

(タイトル)

これは、いろいろなニュアンスや長い歴史のある複雑な現象についての話だ。そこには常に即興、発明、改造、修理がある。こうした品々を通して、数多くの要素と数多くの過程が見えてくる。たとえば、1960年代にアメリカがキューバから引き揚げたあと、すべてのエンジニアも連れて帰ってしまった。そこでカストロは、機械の使い方を学ぶように国民に奨励した。そして人々は、自分で物を修理するようになっていった。それがNational Association of Innovators and Rationalists(全国イノベーターおよび合理主義者協会)という運動を発生させた。

(字幕)
1991年、ソビエト連邦が崩壊すると、キューバは深刻な経済危機に陥った。これは「平和時の非常時」と呼ばれている。

危機がさらに深刻化すると、人々の創造性はより力強くなり、その場で必要となった生活全般にわたる問題解決策が、あらゆる場所に溢れるようになった。乗り物、子供のおもちゃ、食べ物、衣類、あらゆるものが、自分たちで作った代用品に置き換えられた。
私は、もうひとりのキューバ人アーティスト、Diango Hernandezといっしょに、そうしたものを集め始めた。まずはハバナから始めた。1994年か95年だったと思う。この現象が、なんとなく目に見え始めたころだった。

私が美術学校を卒業したとき、国は国民を支援できる状態ではなくなっていた。店からは商品が消えていた。この手の物が、独自の経済を築いていったんだ。私たちは美術学校で工業デザインを学んだが、まったく仕事はなかった。国は機能を停止して、産業もなくなっていた。そこで私たちは、そうした品物を集め始めたんだ。そこから、ずーっと探し続けている。毎日ね。

1997年以降は、国中を探す旅に出た。それは2007年まで続いた。島のいちばん端まで行って、そこから戻ってくる形だ。その途中のすべての街を訪ねた。物を集めて、人に話を聞いて、写真を撮って。その土地ごとに特徴的なものもあるが、全国的に一般化されているものもあった。たとえば、アルミのトレーで作ったテレビのアンテナだ。どこの街でも見かけた。材料はごくありふれたものだ。人々が食事をしにいく公共の場所に必ず置いてある。キューバ人なら誰でも一目見ればわかる。創作力の広がりを感じさせるものをひとつ挙げるとすれば、トレーアンテナだ。

政府は、この危機は大変に複雑になることをわかっていたので、軍から「家族のための本」というものが出版された。ポピュラーメカニクスなどを含む、世界中の出版物を編纂したものだ。内容は、家電品の簡単な修理法から、薬草療法などの医療情報、植物の利用法、護身術とサバイバルなどなど。

フィデル・カストロはこの危機を「平和時の非常時」と呼んだ。北アメリカからの攻撃に備えて、軍はあらゆる準備をしていたが、その知識がこの本に書かれている。

それから2年もしないうちに、政府はその思想がどれだけ浸透しているかを知るために、人々が自分でできることを募集して、それを本にした。この本に載っているアイデアはすべて、投稿によるものだ。本は「自らの努力で」と題されている。

なかでもいちばん有名なレシピはグレープフルーツの皮で作るビーフステーキだ。ニンニクとタマネギとレモンに漬け込んで苦みをとり、焼いてステーキのように食べる。だけど、それはグレープフルーツの皮だ。

80年代、90年代までは、国中に普通のものがあった。とくに洗濯機はすべての家庭にあった。それを半分に切るという改造が流行った。乾燥機の側は壊れやすく、半分壊れた機械が家の中の場所を取ってしまうことが多かった。そこで、洗濯機を半分に切って、いらないほうを処分した。処分したほうは、たとえば扇風機や靴磨き機や合い鍵複製機など、別のものに再利用された。そして洗濯機は小さくなった。

人は物の通常の能力以上のことを考える。その物の限界を超えさせようとする。私はいつもこう話している。こうした物の限界は、使う人の側にあると。物は、確立された技術的規範を伴っている。しかし、すべての人がその規範の範囲内で満足するとは限らない。それを超える必要が生じることもある。すると、なんとかその物の能力を超える力を出させようとする。

Rikimbiliはエンジン付きの自転車だ。物と材料の文化を解説するうえで、これには建築ほどの重みはないものの、Rikimbiliは危機の最中のキューバ人の技術的知識において、ひとつの画期的な存在だった。

ここから、いろいろな思いが見えてくる。注目すべきは、非常に複雑な技術に挑む大胆さだ。ひとつ間違えば命を落としかねない危険な代物でもある。宇宙に自分の身を投げ出す覚悟がなければできない。そして同時に、技術的不服従の考えも見える。じつは、「技術的不服従」という言葉を思いついたのは、Rikimbiliのことを調べているときだった。その言葉は、キューバ人が技術との関連でどう行動するかを要約してくれる。現代の製品に付随する「権威」を、いかに無視するかだ。どのようにしてキューバ人は権威の上を行くかだ。

私はよくこれを外科医に例えている。たくさんの人のお腹を開いていると、血や内臓を見るのが平気になってくる。一度扇風機を分解すれば、あらゆるものを中から見る習慣がつく。

ひとつのオブジェクトを、固有のまとまりとして一体化して見る感覚は、キューバ人にはない。キューバ人は完全にそこから外れているんだ。

人々はあの危機のためにひどく抑圧された。餌のない檻に閉じ込められた動物のようなものだ。なので、どんな壁も障害も飛び越えられる能力を身につけた。そして、美観、法律、経済性など、あらゆる制約を破れるようになった。これがモラルの解放にもつながった。

– Stett Holbrook

原文