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2020.11.16

ものをつくらないものづくり #5 — 大学のスペキュラティヴ・デザイン

Text by editor

本記事は、久保田晃弘さん(多摩美術大学情報デザイン学科 教授)に寄稿していただきました。

先日のMaker Faire Tokyo 2020でも、ベネッセとの共同でSchool Maker Faireが行われていたように、ものづくりと教育はさまざまな観点で結びついている。さらに今年度は、COVID-19の状況で遠隔授業(というよりも分散授業)が不可避になり、小学校から高等教育まで、さまざまな観点から、教育そのものに対する問い直しも始まった。オンラインの授業で得られるものと失うものは何か、教室という物理的空間の役割は何か、さらにそもそも、こうした時代に何を教えるべきなのか(あるいは教えなくてもいいのか)…… 特にディスプレイ(目)とキーボード(指)、ヘッドホン(耳)が中心的なコミュニケーションメディアになってしまった時代に、ものをつくる場(物理的空間)と、ものをつくる身体はどこに行ってしまったのか。それは School Maker Faire の対象だった中高生だけでなく、僕が仕事をしている美術大学においても、そしてもちろんメイカー一人一人にとっても切実な問題である。コロナ対策と経済活動の両立がさまざまなところで叫ばれているが、同様にコロナ対策とものづくりの両立も考えていかなければならない。特にメイカーのものづくりは、アトリエや工房に籠もって一人で黙々とつくることよりも、むしろ人々が集まって協働作業を行ったり、その成果を皆で一緒に体験したり、学んだことを教えあったりすることがベースになっているため、その両立は必要不可欠である。

これから何回か、このCOVID-19時代における、ものづくりと教育に関する問題を考えていきたいと思う。数年前のMOOC(大規模公開オンライン講座)の喧騒を思い出せば、今日随所で行われるようになったオンライン教育も、もしそこにコロナ対策以上のポジティヴな意味が存在しなかったとすれば、単なる一過性の避難所で終わってしまうだろう。もちろん、そのうち社会は元に戻るのだから、それで何も問題はない、という意見もあるかもしれない。だとしても、今ここで教育の場に起こったことを内省し、それを現在の教育の変革のために利用することは、今の時代に取り組むべき一つの課題であるように思える。そこでまず、僕が日々接し活動している高等教育、つまり大学について考えるところから出発する。

昨年出版された一冊の本を紹介したい。タイトルは『Alternative Universities: Speculative Design for Innovation in Higher Education』(Johns Hopkins University Press, 2019)。日本語に訳せば「別の大学:高等教育のイノベーションのためのスペキュラティヴ(思索的)・デザイン」となるだろうか。何やら今時の単語が並んでいるが、そのアプローチはシンプルである。スペキュラティヴ・デザインの手法で、大学や大学院をより良くするためにはどうしたらいいかを考え、あり得る大学のプランをデザインし提示する。著者はデヴィッド・ステイリー。学部生・大学院生合わせて学生数が50,000人を超える、全米最大規模のオハイオ州立大学の准教授(歴史学)であり、同大学の人文科学研究所の所長も務めている。

ここでスペキュラティヴ・デザインとは、「ものごとがどのようになる得るか」という可能性を思索(speculation)するためのデザインを意味している。私たちが自分たち自身の現在の状況を批判しながら、あるべき姿の可能性を提示するデザインは、多くの人が思い浮かべる現状肯定的(affirmative)なデザインではないが、既存の規範に挑戦し、別の現実を提示するという意味で、極めて実用的(practical)なものでもある。この本の文脈では、新しい大学制度の青写真を提示することで、人々の大学に対する見方や考え方を拡げて行くことを指している。青写真を提示することは、荒唐無稽であるだけの、最初から実現を意図していない奇抜なアイデア合戦を繰り広げることではない。人間の思考を暗黙のうちに束縛している既成概念という仮想現実を超えていくための、実現可能なモデルであり、アンソニー・ダンとフィオナ・レイビーがいうところの、起こりそうな(probable)未来と、見込みのある(plausible)未来の間にある、より良い(preferable)未来のためのモデルである。

本全体は「組織」「実習」「技術」「結果」という4つのパートに分けられていて、順に

・Platform University(プラットフォーム大学)
・Microcollege(マイクロ大学)
・The Humanities Think Tank(人間科学シンクタンク)

・Nomad University(遊牧民大学)
・The Liberal Arts College(教養大学)

・Interface University(インターフェイス大学)
・The University of the Body(身体の大学)

・The Institute for Advanced Play(先進的な遊びの研究所)
・Polymath University(博識大学)
・Future University(未来大学)

という、全部で10の思索的大学の事例が示される。

「組織」で再検討されているのは、知識のカテゴリーとその整理の仕方である。「プラットフォーム大学」におけるプラットフォームとは、教員と学生をつなぐための組織であり、プラットフォーム大学はその結びつけを行うため「だけ」に存在する。ベースにあるのは、アテネのアゴラ(人が集まる公共空間)であり、人と人との相互作用を促進する社会的な形態にフォーカスしたアイデアである。「マイクロ大学」も、1人と教員と20人程度の学生からなる小規模な組織の集合体としての大学であり、名店街としてのゼミや研究室の個別性と多様性を最大限に生かすための、コラージュ的な方法である。「人文科学シンクタンク」は、従来の一般大学では影の存在であった人文科学(文学、歴史学、宗教学、美術史、哲学など)に光をあて、大学における科目=知識体系の図と地を反転させた大学である。そうすることで、「専門家」ではなく「一般市民」が学問の対象となり、そこから世界に変化をもたらすことを目的としている。

次の「実習」では、教室における授業よりも、社会における実践や活動に着目し、さらに「やって学ぶ」ことを越える知識や教養のありかたを考える。工業化社会では、人々がある特定の役割や機能を担うために、農耕社会と同じように1か所に定住することをベースとしていた。「ノマド大学」は工業化によって生まれた定住専門家をもう一度野に放つために、物理的に固定されたキャンパスの存在しない大学を考える。移動するマイクロ大学ともいえるだろう。こうした大学は、固有のキャンパスを持たず、学生は4年間で世界7都市に移り住みながらオンラインで授業を受講するミネルバ大学などで、すでに実践され始めている。

「教養大学」は、ちょっと名前からは想像し難いかもしれないが、「教科」ではなく、インターンや実習を通じて「技能」を身につけることを中心にした大学である。リベラル・アーツとはそもそも、「人が持つべき実践的な知識・学問としての基本技芸」とされた自由七科(文法学・修辞学・論理学・算術・幾何・天文学・音楽)のことであった。この自由七科を現代社会の実学となるようにアップデートした、つまり再定義されたリベラル・アーツ教育に基づく、学部中心の4年制大学のリノベーション案である。ステイリーは現代の自由七科として、具体的に以下のものをあげている。

1. complex problem solving(複雑な問題解決)
2. sense-making(意味付け)
3. making(つくること)
4. imagination(想像力)
5. multimodal communication(多面的コミュニケーション)
6. cross-cultural competency(異文化理解能力)
7. leadership(リーダーシップ)

「技術」の部で考えるのは、教育のためのテクノロジーの話ではなく、テクノロジーとの関わり方を学ぶための大学である。面白いのは「インターフェイス大学」で、これはいわゆるインターフェイスのデザインを学ぶための大学ではなく、今日の人工知能の成長が、高等教育にどのような影響を与えるかを考えるための大学である。コンピューターをツールとしてではなく、「第3の大脳半球」とみなすことで、このデジタル大脳半球との「脳梁」を開発することを目指す。人間と機械が協力(相互作用)することで、未来の認知が人工知能と人間知能のハイブリッドになり、それぞれが単独では不可能な認知や知性を獲得するためには、脳梁=インターフェイスとしての大学が必要不可欠である。それは大学の基本的な科目群を、アルゴリズムを軸として再編することと同義になるだろう。ジョセフ・アウンの『Robot-Proof: Higher Education in the Age of Artificial Intelligence』(The MIT Press, 2018)でも、こうした大学について、詳しく論じられている。

「身体大学」はポストディスプレイの世界、つまり情報が本当の意味で環境になり、視覚以外のあらゆる感覚で情報と接するようになった社会における大学のあり方を考える。情報は匂いになるかもしれないし、手触りになるかもしれない。こうした身体化したメディアの世界における情報リテラシーのスキルとは何かということを、学生たちと一緒に考えていく。

最後の「結果」では、こうした思索的な大学がどのような卒業生を輩出するかに焦点をあてる。従来の「研究大学」が知識の発見を目的とした大学であるとすれば、「先進的な遊びの研究所」は知識よりも想像力をより高く評価する大学である。「遊び」は洗練された認知活動であり、創造性と革新性の重要な源泉であるにもかかわらず、研究大学では遊びの機会をほとんど与えられていない。知識も経験もある大人が、その上でなお真剣に遊ぶことができる遊び場とは、一体どのようなものだろうか。

「博識大学」は学際性をそのままモデル化した大学であり、マイクロ大学をクロス構造化したものともいえる。卒業要件として学生は、3つの異なる分野を専攻する必要がある。しかも学生は、「歴史・英語・哲学」や「会計・財務・経営学」のような類似した分野を専攻することはできない。学生は例えば、「哲学・社会学・金融」や「会計・歴史・デザイン」のような異なる分野を専攻する必要がある。ステイリーは具体的に3つの分野の科目として、以下のものをあげている。

革新的で創造的なアイデアが、往々にして異なる分野間の境界で出現するだけでなく、こうした広く多様な科目を学んだ博識な学生には、しなやかで複雑な心が養われるだろう。最後の「未来大学」はスペキュラティヴ・デザインがそうであるように、未来を思索を拡げ、深めるための道具として用いる。カリキュラム全体が未来について考え、構築することを中心にデザインされている。純粋な未来学とは、好奇心以外の理由で未来をシステムとして探究することであり、逆にその予測結果によっては、望ましい未来を実現するために、そこから逆算された現在を実現することを試みる(それをステイリーは「応用未来学」と呼んでいる)。

その他にも「美の大学」「高齢者大学」「技術大学」といったコラム的な提案もあり、まさにこの本は、それぞれの提案に対する問題点が挙げられていないという批判があるものの、今日の高等教育における先進的な考え方のソースブックといえる内容になっている。特に、高等教育の基本的な目的そのものについての議論が行われていることが重要だ。もちろんこうしたアイデアをひとたび実践しようとすれば、リスク回避的な行動を志向する教育機関は、既存の標準から逸脱することを恐れて、結局はどの大学の目標も、ミッションも、カリキュラムもほとんど同じものになってしまう。さらに政府の認証制度や補助金の支給方法が、その傾向に輪をかける(以前の存在論的デザインの話を思い出して欲しい)。その結果生まれるのは、商業主義と同じような価格(学費)による競争でしかない。それこそが、日用品化した教育のモラルハザードである。

そんな大学改革の現実的な困難に対して、ステイリーはこう語る[1]

既存の教育機関でも、私が提案する大学の小規模バージョンを組織することができます。今日、多くの大学がキャンパスの近くに、技術を商業化するのためのインキュベーターを設置していて、そこで教員のアイデアが育まれ、ベンチャーキャピタルと一緒になってビジネスになっています。革新的な大学のための、インキュベーターを設立するのはどうでしょうか。これは、私の「別の大学」のような革新的な教育形式のアイデアを開発する研究所です。まず初めに、あるモデルを選択し、それを作業モデルとします。たとえばある研究所が、インターフェイス大学を作業モデルとしてとりあげます。すると「別の大学」の、小型バージョンが生まれます。インキュベーターはそこに教員を割り当て、学生募集を開始します。モデルが成功すれば、最初は実験的な大学の規模が次第に大きくなり、うまくいけばこの新しい大学が、独立した組織となる可能性もあります。大学自身が革新的な大学のインキュベーターを設立できたのです。

まさにこうした方法こそが、インキュベータとしてのメイカー・コミュニティと大学が結びつくべきところではないかと、僕は考えている。
(続く)

参考文献

[1]‘Alternative Universities’ Author discusses his new book on “speculative” alternatives for higher education, Scott Jaschik, March 12, 2019.
https://www.insidehighered.com/news/2019/03/12/author-discusses-his-new-book-speculating-alternative-models-higher-education