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2015.12.11

買えるものを作ることの意味

Text by kanai

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先月、私はこんな記事(英語版)を書いた。「Make:」のようなサイトでプロジェクトに「ハック」という言葉を使ったときの混乱に関する意見だ。あの記事は、タイトルに「ハック」という言葉を見たときにネガティブな印象を持つという多くの人たちへの反論だった。もうひとつ、私が最近気になるネガティブな反応に、昔からある「作るか買うか」論争に関するものと、同じものを安く買えると知った時点で作るのを止めてしまうという問題がある。

同じようなものが店で売られている、作るより買ったほうが安いプロジェクトを公開するとき、かならずと言っていいほど、たくさんの、中には怒ったような口調でこんなコメントが付く。「なんでわざわざ作る必要がある? Home Depotへ行けばタダ同然で買えるのに」と。または、何百とは言わないまでも何十時間もかけたプロジェクトには、決まってこんなコメントが付く。「へえ、よっぽどヒマなんだね」みたいなね。

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そうしたコメントを見るにつけ、「この人は何かモノを作ったことがあるのだろうか?」といぶかってしまう。もし作った経験があるなら、なぜ人はわざわざ作るのかという問題に対する答えを知っているはずだからだ。自分の手で何かを作ったなら、そしてそれが日常使ったり接したりするものであれば、自分で作ったということで、特別な価値が生まれる。自分で作ったものは、自分の体の一部になることが多い。それを使うとき、誇りと、深い達成感を憶える。そして幸せになれる。

「Make:」で以前記事を書いていたMister Jalopyは、よく「inspired object(触発するもの)」というコンセプトについて話していた。それは、自分の人生と共鳴し、それを通して世界を見たり世界と関わったりできるもの、または、自分の手から生まれたものなので、そうした価値を引き継いでいるもの、という意味だ。自分で作ったものには、ほぼすべてに、程度の差こそあれ、inspired objectの資質を持っている。

「Make:」のファウンダー、Dale Doughertyは、買うより作ることで得られる特別な種類の喜びを「the joy of making(作ることの喜び)」という言葉で言い表している。作ることの喜びを得れば得るほど、なぜ人はものを作るのだろうという疑問は小さくなっていく。

My beloved, homely little wooden box, sloppily but earnestly made in high school shop class 41 years ago. It's played a part in my life ever since.

それを表す実例としていつも思い出すのが、私が15歳のときに高校の技術科の授業で作った使い古したパイン材の箱だ。それは今でも使っている。特別なテープを入れるために使っているのだ。しかしそれは、木工製品としては残念な出来映えだ。私の初めての木工作品であり、完全な直角ではなく、角は紙ヤスリをかけすぎているし、1枚の板材は節の真ん中を切っているし、そうした失敗を誤魔化すために、大量のニスを塗り重ねた。

たしかこの成績は「C+」だったと思う。しかし、それを使うときにはかならず、小さな喜びの感情が湧き、あの宝石のような思い出がよみがえる。技術科の授業(気むずかしくて厳しい技術科の教師や不器用なクラスメイトたち)だけではない。あのときからこの箱はどうだったかを考える(亡くなった妻と2人でグラフィックデザインの仕事をしていたとき、私たちはこの箱にラインテープや枠線のデザインを入れていた)。もしあの箱が既製品で、自分で作ったものでなかったなら、こんなに好きにはなっていなかったはずだ。目立たない、触発されないものだったに違いない。

感傷的に聞こえるかもしれないが、自分でものを作れば、単にものを作るだけでなく、自分の中の何かをそのものに変換することになる。そうした特殊な関係のために、ものはより多感になり、私の箱のように、思い出を蓄積しやすくなるのだ。あの箱は、中に入る以上にいろいろなものを納めてくれる。

そして、もちろん、作ることにはお金に代え難い教育的な価値がある。「Make:」のもともとのタイトルは「Make: technology on your time(Make: 余暇のテクノロジー)」だ。「スローフード・ムーブメント」のテクノロジー側の回答と同じく、そこには日常の生活の中のテクノロジーと仲良しになろうという考え方がある。蓋を開けて中を覗き、その仕組みを知り、修理し、ハックし、改良して派生品を作る。生活の中のテクノロジーを知れば知るほど、その仕組みを理解すればするほど、それをコントロールできるようになる。そして、それはよりパワフルなツールになる。私の箱が、それほど思い出深いものではなかったとしても、それを作る過程で、私はテーブルソー、ベルトサンダー、バークランプの使い方を学び、設計を全般、裁断、組み立て、仕上げの方法を習った。そのすべてのスキルは今でも私のものだ。作ることには、その過程に、製品そのものと同じぐらいの価値がある。5年前、私は、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で教えていたときの体験をもとに著した記事(英語版)を出版したが、そこでこの考え方について詳しく説明している。

人生において、作ること、そしてMakerを自認することには、まだたくさんの理由があることは明らかだ。そのひとつには、本当のイノベーションがある。その過程を学ぶこと、失敗をすることを「遊ぶ許可」を自分に与えた人が底辺から起こす革新だ。みなさんからも、自分で作ったものに関する話を聞かせてほしい。作りながら、作ることの楽しさを覚えたはずだ。コメントを待ってます。

原文